偏好文庫-「好き」を解釈し続けるメディア-

いろんな“好き”を愛するための(ひとり)メディア、偏好文庫です

感想文:『ARASHI Anniversary Tour 5×20 FILM “Record of Memories”』:約18年の茶の間オタ人生があっさり報われてしまった

■前口上:嵐と僕(茶の間オタク歴18年目)

嵐を18年ぐらい追いかけ続けています。画面越しに。

言わずと知れた国民的アイドルグループ、嵐。今更説明するまでもないぐらい有名だし、多分ここに流れ着いてくれたようなあなたはきっと既に彼らのことを好きか、好きまではいかずとも憎からず想っているはずなので彼らについての詳細は省きます。“彼ら”とか、おれあいつらのことよく知ってんぞ風情を感じる代名詞使っちゃうぐらい、僕の生活には彼らの存在が密接になっています。
小学校高学年であの名曲『サクラ咲ケ』を耳にし、パワフルな歌声とやたら元気そうな、仲の良さそうなMVでの振る舞いを目にし、そして当時土曜日の真昼に放送されていた冠番組での楽しそうな様子を毎週観て……気がついたら18年が経っていました。
音源が出れば必ず買い、多い時で週に3本もあった冠番組はほぼ毎回録画してチェック。ライブDVDも大体持っていて、一時期は何度も繰り返し観ていた。今はすっかりいわゆる邦ロック好きの僕だけれど、一時期ほど熱度は高くなくなっても、彼らが活休に入っても、ゆるくずっと好きだ。
好きになったものやひとは信頼出来る誰かと共有したくなるのがオタクの性で、僕は当時まだ少し――誤解を恐れずに敢えて悪い言葉を使うと、落ち目の状態だった彼らの存在を、幼稚園児の頃からの仲である幼馴染みと共有した。中学生以来彼女も僕と同じようにゆったりと彼らを追いかけ続けているが、彼女は一度か二度だけ彼らのライブに行った経験があった。彼女は当時、一緒にファンクラブに加入した家族と一緒にライブに行くことになったことを「誘えなくてごめんね」と申し訳なさそうに打ち明けてくれたが、あの争奪戦を勝ち抜いて僕の分までチケットを確保しろと言う方が無茶なわけだし、流石にいいなあとは思えど、思いのほか羨ましくはなかった。
そんなこんなで、未だに彼らのライブを実際に観に行ったことはない。いわゆる“茶の間オタク”ってやつだ。しかも、ファン仲間ともSNSなんかで交流すれど、半年も続かない。フォロワーからひとりふたりと姿を消し、気がつけば件の彼女しか周囲にいなくなっていた。
長いファン歴ではあるけれどこんな感じのぼんやりとしたノリでい続けているのは、キラキラとしたジャニオタ界隈の雰囲気についていけなかったところが大きい。今追いかけている対象(主にバンドマンやシンガーソングライターなど)にもかなりアツい感情を向けているタイプのオタクではあるけれど、女性俳優と共演したり髪形を変えたりしただけでネットニュースになるような界隈で、平穏にオタ生活が続けられるようなメンタルは僕にはなかった。だから仲間も幼馴染み以外に必要ないし、物理的にいわゆる“沼”が可視化されてしまうライブやイベントの類に足を運ぶ気もない。これからたとえ彼らがいつかまた活動を再開したとしても、無限に茶の間で構わないとすら思っている。

しかし――いわゆる“邦ロック”界隈で経験した、ライブにしかありえないあの高揚感を、彼らの現場でも一度でいいから得たいという欲求がないと言えば嘘になった。みっしりとした観客の熱気、薄暗いハコの空気、色とりどりの照明、湧き上がる歓声、舞台の上で舞い踊り歌う、煌めくような生命の息吹――。
ゆるふわぼんやりとしたオタクのまま、それを味わいたかった。

前置きが長くなってしまい申し訳ありません。そんな我儘ゆるふわ嵐ファンの僕にとって、お誂え向きすぎる映画が昨年末より公開されていたのでした。
『ARASHI Anniversary Tour 5×20 FILM “Record of Memories”』
この長~~~いタイトルの映画。いわゆる音楽ライブの、記録映画というやつです。この得体の知れない長~~~いタイトルの映画を、僕はこの18年間待ち続けていたのかもしれません。





(めっちゃ推し色ファッション)


■初めての“ライブ記録映画”。「ライブDVDと同じだったらどうしよう……」と思ってました

とはいえこれですよ。ほんとそう。一時期はすり切れる程観たライブDVD。それをただ映画館で上演されているようなものになってしまっていたら……あまりの期待感の高さにそれだけが少し不安でした。だってライブの模様を映像に収めただけなわけでしょう?
会場は東京ドーム。夥しい数の映画撮影用機材を持ち込み、日本を代表する映像カメラマンがその場に集結し、その総指揮を執るのはあの堤幸彦監督。嵐が主演した映画やメンバー出演ドラマ――『ピカ☆ンチ』シリーズやニノ氏主演の『Stand Up!』(大好き)など――の演出も務めた、僕も敬愛してやまない映像監督です。そんな鳴り物入りの最高のシチュエーション、真偽のほどは定かじゃないがその日は日本中の映像撮影現場からやり手のカメラマンが消えたとすら言われていた程の作品。しかし公式からの前アナウンスがギラッギラのゴリッゴリだった作品でそのアナウンスを越えてきた試しなどないのが相場ってもんだ(そうなの?)。そもそも嵐のライブ映像なんて有名な映画監督が撮らんくても最&高に決まっていることはこれを読んでくれているあなたならわかるはずだ。しかも僕はこの時勢い余って件の幼馴染みの分までチケットを獲ってしまった!! 当然のように笑顔で応じて一緒に映画館へ足を運んでくれた彼女の想いも裏切ってしまったらどうしよう……いやまあいずれにせよ最高であることは保証されてはいるわけだが、この高すぎる期待を越えてくれなかったら……どうしよう……と勝手に考えすぎてやや悩みながら当日を迎えたわけです(そのせいか最近新しくなった池袋の某映画館の場所を間違えて別の映画館に凸してしまったことは内緒なんだぜ)(幼馴染み「落ち込まないで、日本橋(にほんばし)と日本橋(にっぽんばし)間違えたようなもんだよ」)(ちょっと違う気がする)

しかし……

徒労でした!!! 期待以上!!! 完全にあれは“映画”でした……!!!

冒頭から既にちゃんと映画的な始まり方なんですね。ゆったりした映画館の椅子に包まれて、見上げたスクリーンには夕暮れの東京の景色。それが徐々に夜景に変化し、東京ドームの遠景に変わります。堤監督お得意の、早送りで空の色の変化を捉えるあのエバーグリーンな演出です。
流石堤さん!!!!!! 嵐をよくわかっておられる!!!!!! と数十秒前までほんのりと胸に秘めていた不安が嘘のように消えてゆき、早くも心の中で拍手を送っていると、景色は彼らが今までライブを行ってきた海外の都市や日本の都市の街並みに。ハワイにヨーロッパ、大阪、北海道……じきにカメラは引いていき、煌めく銀河に浮かぶ地球のCGが登場。演出が大袈裟すぎていっそギャグみたい。しかしそれがいい。それこそがいい。とんでもないSFスペクタクルが始まりそうだけれど、2020年大晦日に行われたあの配信ライブでも彼らは最後母星(?)に還っていったし、この時の嵐はそういう世界観だったのかもしれない。
ともかく、まだ彼らが出てくる前からワクワクする。これから伝説の一夜が目の前で再生されるのだと、いやが上にもワクワクさせられてしまう。

遂に開演の時!! ものすごい数のオーディエンス、溢れかえる星屑の海のようなペンラの光。遠くに見えるステージに嵐が登場……するかと思いきや! なんと!!! 視点が急に舞台裏に移動!! 今正にゴンドラに乗ってステージの上にせり上がっていくMJの真横から始まったものだから度肝を抜かれましたね。カメラに向かって茶目っ気たっぷりに合図してみせる世界のMJ。その奥に並ぶ4人。カメラは彼らと一緒にゴンドラに乗ってせり上がっていきます。
そうか、これはただただ嵐のライブパフォーマンスを高画質で捉えたものではなく、“彼ら”の目線と“客席”の目線を入り混じらせることで、“嵐のライブ”という現象すべてを捉えたドキュメンタリー映像なのだ、と感じました。冒頭の演出だけで既に監督がやりたいことがはっきりと伝わってくる。これは嵐のライブでありながら、きちんと堤監督の作品でもあるのだと。
そりゃ生ライブの空気には勿論替え難いだろうけれど、映画だからこその良さがあったと思います。堤幸彦監督だからこそ集められた精鋭のカメラマンがドローンまで飛ばして、堤幸彦監督だからこそ近づける距離感で嵐を捉え、流石の手腕で息継ぎや飛び散る汗まで感じさせる。きちんと“ライブ”だったし、きちんと“映画”でした。

■ディレクター松本潤の手腕の凄まじさとそれを活かしきるメンバーのポテンシャルたるや(もちろんプレイヤーとしてのMJもすげえ)

冒頭からさっそく僕の徒労を見事に砕き去り、堤幸彦監督ファンとしても大満足の走り出しだったわけですが、やっぱりライブ自体が良いから映像として映えるんですよね。これは言うまでもない。今や嵐のライブはひとつの一大エンターテインメントとしてファンだけでなく少しでもアイドルやジャニーズや舞台芸術の類に興味のあるひとたちの間では知られているわけだけれど、ファン以外に意外と知られていないのがその演出を一手に引き受けているのが、メンバーであり嵐が国民的アイドルなんて言われるきっかけを作った程の“ザ・エンターテイナー”“ザ・嵐”な男・松本潤であること。更に言ってしまえば、嵐に限らず――僕はあまりジャニーズ以外のアイドル界隈に決して明るくはないのだが、もしかしたらジャニーズにも限らず、なのかもしれない――多くのアイドルがメンバー自身のアイデアや意思をベースにライブの演出を組むのが当たり前になってきているようです。ともすればプロデューサーや作家の提示するパブリックイメージに従うお人形さんのようなイメージを持たれがちな職業であるアイドルだけれど、彼ら彼女らの息吹は確かに舞台の上に鮮明に表されているんじゃないかと思う。
当然ながら、嵐のライブの演出をつける際にも、MJはメンバー全員からアイデアを募り、たくさんのスタッフの方や作家の方などと話し合い、5人とそれを支えるすべてのひとびとの英知の結晶としてライブ演出を作り上げています。これはファンの間では割とよく知られていることなのだけれど、嵐はメンバー自身が誰よりも“嵐”というエンターテイメントグループのファンなんですよね。当然MJもまた“嵐のファン”なのでファン心理を知り尽くしているし、そこに加えて自分を含めメンバー自身の特性やキャラクター、パブリックイメージまでをも知り尽くしているんですよ。当然ですね。だって彼自身が“嵐”なのだから。ちょっと何言ってるかわからない。

たとえば最近すっかり毒舌マイペースおじさんと化しており(失礼)それもまたチャーミングなニノの、最大の武器である伸びやかで神々しさすら覚えるハイトーンが最も活きる『果てない空』のパフォーマンス。白を基調とした衣装で大ビジョンの前を颯爽と歩きながら歌い上げる彼の通る道のあとには、色とりどりの花が咲き乱れ、最終的には彼ら自身がまるで花の一部のように彩られて呑み込まれていきます。ニノが歩く道に大輪の花が咲いていくさまはまるで魔法のようにも見えるし、高村光太郎のあの有名な詩の一節「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(『道程』)を思い出したりもしました。
たとえば、大野さんのソロダンスパート。歌も唄わずメンバーもジュニアも登場せず、光や映像のシンプルな演出で踊りまくるまさかのSST(スーパー智タイム)にめちゃめちゃびっくりした。同行の幼馴染みは古の大野担なので大層ぶっ飛んでおられましたね。改めて彼の身体能力の高さ、音楽的センスの高さに驚かされました。ダンスが上手なひとって、ジャンプに重量がないんですよね。まるで羽根のような軽さ。よく知ってるつもりだったけれどやっぱりすげえやリーダー。
たとえば、ご本人曰く「もうライブでは披露しない」とのことだった櫻井翔さんのピアノタイム。今や世間一般的には知性的なイメージが強いであろう彼の、バチバチのライブパフォーマンスに耐えうるために仕上げられた張り詰めた筋肉がギュッと固くなり、白鍵と黒鍵だけに真っ直ぐに立ち向かっているのがよくわかる横顔と、お衣装から剥き出しの腕がなんかもう堪らんかったですね。想像以上の繊細で正確なタッチ、髪から滴る汗。言い忘れてたんですが、僕小学生の当時から櫻葉担(櫻井翔さんと相葉雅紀さんのコンビに熱を上げるオタク)でした。
たとえばMJご本人がオーケストラ演奏に指揮をつけたあのワンシーンにもグッときました。僕は完全にポップス/ロック育ちなのでクラシックには明るくないのだけれど、そんな素人の僕の目にもかなり完璧な、玄人裸足の指揮っぷり。「新作映画で指揮者の役入ってます???」という感じの身振りの完璧さはさることながら、錚々たる演奏者の方々を前にしながらも、とっても楽しそうなピカピカの笑顔でのびのびと指揮棒を奮っていらしたのが印象的だった。きっと想像だに出来ないほどの練習量を熟されたのでしょうが、それを一切感じさせない完璧な“松本潤”っぷりでした。

いやでも、それよりなにより特に衝撃的だったのは『I’ll be there』パフォーマンス前に挿入された相葉さんメインによるドラマ映像パートですよ。先刻の通り櫻葉寄りの相葉担たる僕なので贔屓目も大いにあるかとは思うのだけれど、流石にあの件は本気で「……何???」って声が出たね。同行の幼馴染みは「黒相葉」と名付けていましたが……マジであれは“黒相葉”でした。何???
白黒を基調としたファンタジーな室内に閉じ込められたメンバー。テーブルや椅子など簡素な家具しか置かれていない室内を徐々に“黒”が蝕んでいき、影のように範囲を広げる“黒”に少しでも触れてしまうと一瞬で灰のように消えてしまう。“黒”から逃れようと策を講じるも、ひとりまたひとりと消えてしまうメンバー。しかし、その“黒”色を操り彼らを消滅させていたのは彼らの仲間であるはずの相葉雅紀さんそのひとなんですよ!?(!?)
最終的にメンバー全員を闇の中に飲み込んでしまう闇使いの相葉雅紀。映像のお洒落さはさることながら久しぶりに見た悪そうな笑みの破壊力が半端じゃなかったです。シックな正装に身を包み、あの長い長い脚を優雅に組んでソファに腰かけ、ゆったりと口角を上げる表情の美しさよ。最早性別すら飛び越えて悪女に見えてくる不思議。あの演出つけた松本潤何考えてんの??? 全国の相葉担を殺す気だった???
その後のパフォーマンスのカラフルなワッペン付きの探偵コート姿も美少女に見えたのは多分僕の目が彼の眩しさにやられていたせいだと思います。もうミルキィホームズだったもんあれ。しかしそれにしたって彼の40代を目前にしても一向に失われない透明感とイノセントさには美少女がそのまま成人男性になってしまったような感じがあると思うんですが何言ってんのか段々よくわかんなくなってきましたね???

少々取り乱しました申し訳ございません。やはり古(いにしえ)のこととはいえ自担の話になると止まらなくなりますね。ともかく何が言いたいかというと、松本潤の演出力は神がかっているよねという話なんですよね。そりゃジャニフェスの演出も任されるわ。
本編終わりのエンドロールに「総合監督 堤幸彦」と肩を並べるように「directed by 松本潤」の字面を目にした時、思わずほくそ笑んでしまいました。

■どんなに国民的なスターになっても

僕は普段ロックバンドを主に追いかけているオタクです。彼らへ向ける感情も、正直なところアイドルを推すことと同様に偶像崇拝であることに違いはないと思います。流石にアイドルよりもプライベートに於ける“完璧”をあまり求められていなかったり、彼ら自身が作り出す楽曲の方が前面に押し出されていて彼ら自身のキャラクターのありようはあまり求められていなかったりといった相違点はあるけれど、僕たちの目に見えている彼らは決して、必ずしも彼らの素顔ではないという点では一緒だと思っています。
だけれど、偶像であるはずの彼らの、“人間”としての意志の強さや思想やセンス、人間性とでもいうものに惹かれて推すに到ることは多いです。そこに人間的な生々しさを感じることで、自分の中で醸成された彼らの偶像が、より魅力的なものになっていくのだと思います。そして、この感覚はなにもミュージシャンだけに限らず、アイドルを推す時だって一緒なんじゃないでしょうか。

なにもアイドルだって、妄想の中に生きる完璧な偶像なんかじゃないはず。つるりとした美しい、凹凸のないマネキンなんかじゃないはずです。時にお肌に吹き出物だって出来るし、それぞれに譲れない価値観や感性、強い意志があるはずだ。時に過ちだって犯すし、それを乗り越えた過去だってあるはずだ。そんな生々しい人間じみた存在感を感じるほどに、ファンの心の中に生きる偶像も魅力的になっていくのだと思います。

僕は改めて映画館のスクリーンという大きな画面で嵐の雄姿を目にして、彼らは別にスターになるべくして、ゴリ押しされてスターになった訳ではないということを思い出しました。事務所に推されてなかった時期さえあったし、そもそもがメンバー5人中3人が事務所を辞めようとしていた過去のあるグループだったのだから。
それでも、彼らは諦めなかった。新たに目標を見つけ、夢を見て、そこを目指して地道に歩んできた。その道のりに花が咲いたからこそ、今の“国民的アイドル”の姿があるのだと改めて思いました。堤監督によって捉えられた彼らとの距離感、描き方によってそう感じさせられた部分も大きいかもしれない。

嵐は国立競技場でもライブを行った程のアイドルグループです。この映画で描かれていたのは東京ドームでの公演で、彼らはデビュー以来何度も何度もこの場所でライブをしてきました。いわば彼らにとってはある意味日常のような場所かもしれないですね。
だけれど、アンコールで肩を組んで汗まみれで楽しそうに笑顔を見せる彼ら5人を見ていると、それは単なる偏見だと気づかされます。たとえどんな舞台であっても、彼らにとっては一生に一度の晴れ舞台なのだと、少年のような5人の瞳の輝きが物語っていました。それは多分天皇陛下の御前であっても、小さな小さな音楽スタジオであっても、究極そこに貴賎はない。
そしてこれはなにも嵐に限った話ではない。どんなスーパーアイドルでもモンスターバンドでも、インディースバンドでも地下アイドルでも路上のシンガーでも、表現者にとってはハコの大きさなんて、究極論を言えば関係ないのです。より多くのひとに自分の表現が届いているという数字による証明にはなるが、彼らにとってはいつだって、一世一代の大舞台であることに違いはない。
どんなに国民的なスターになっても、嵐はずっと嵐のままでした。パジャマ姿で小さな楽屋に詰め込まれて、楽しそうに笑っていた嵐のままでした。自転車1台で日本列島を爆走した嵐のままでした。乳首の開いたTシャツを着せ合って苦笑いしていたあの日の嵐のままでした。だからこそきっと、彼らは国民的スターになれたのだと思います。

■茶の間冥利に尽きる体験でした

映画の中でも特に印象的だったのが、エンドロールの演出。歓声に包まれて歌う彼らの歌声をバックに、映像は流れずブラックアウトした画面の上を夥しい数のスタッフの名前が流れていく。それまでのパフォーマンス時には彼らの歌やお喋り、生演奏のオケをしっかりと聴かせるために控えめに調整されていた歓声が、エンドロールでだけは少し大きめに入っていたのが、本編を観てから数ヶ月が経過してしまった今でも鮮明に思い出されます。会場の熱気を、より強く感じさせるための演出だったのでしょうか。

そんなエンドロールが明けて最後。緞帳の向こうで肩を組み、笑顔を見せる5人の姿でこの映画は終わります。キラキラした満面の笑み。だけれどその向こう側に隠したそれぞれの感情を察することが出来るような、なんとも筆舌に尽くし難いグラデーションのような陰影の感じられる笑顔が、セピア色で捉えられています。そんな彼らを最後まで包むのは、怒濤のような歓声の渦。その黄色い叫びたちは幕切れの瞬間までどんどん増幅され、僕は胸の熱さと同時に俄かに恐ろしさのようなものすら覚えました。
彼らはきっと、凄まじい葛藤をそれぞれに抱えていたのでしょう。それでも、あの“場”に立つことが何よりも楽しかったのだと思います。何よりも大切で、何よりも楽しい時間だったのだと思います。彼らの気持ちなんて勝手に想像することしか出来ないただのいちファンでしかないけれど、あの笑顔を目にしたらきっと誰だってそう思うし、そう思いたくなるはずです。


映画を観た後は暫く放心した後、幼馴染みと池袋の定食屋で大盛りのアジフライ定食をたんまり食べて、まるで中学生に戻ったようにはしゃぎながら帰りました。この日、何が一番嬉しかったって、結局幼馴染みとこの時間を共有出来たことかもしれません。学校にこっそりアイドル雑誌や写真集を持って行き、音楽室の脇の出窓に腰掛けてふたりで語り合った中2のあの日を思い出しました。ああ、遠し青春の日々よ。
そも元来ライブというものの醍醐味の中には、同じ存在を愛する仲間とその“場”の空気を共有するといった要素もあるわけで。ずっと体感してみたかった“嵐のライブの空気を仲間と共有する”という感覚を味わえたのだからそりゃこの上ない幸福に決まっています。


次嵐が“嵐”として活動を始めるのはいつになるかわかりません。来年かもしれないし、5年後かもしれないし、10年後かもしれない。日本初のおじいちゃんアイドルグループが爆誕する可能性だって否定できない。そんな現状に陥るまで、僕は茶の間ファンから脱することが出来なかったけれど、あの素晴らしい映画作品のおかげで茶の間ファンとしての自分の18年間が、やっと報われたような、誇りに思えるような気持ちになれました。
円盤が出たら勿論買うし、もしもこれから観に行く! これから近くの映画館で上映が始まる! というような方がいたら是非! 何も心配せずに体験してほしいと思える作品でした。本当に良い映画だし、良いライブ体験でした。


ところでこれは余談なんですが、僕らが観に行ったタイミングは都内ではそろそろ上映終了の時期だったので売店のグッズの品揃えがだいぶ危うくなってきており、メンバーのマーベラスなライブ場面写真を配したクリアファイルが寡少だけ展示されていたのですが、そのラインナップが何故か我が自担相葉雅紀さんのみだったんですよね。どうして??? まさか売れn……まさか、ね……?(勿論買いました)

(劇終)




5×20 All the BEST!! 1999-2019 (通常盤) (4CD)

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【店主的2021年名盤紹介・その5】GOOD ON THE REEL『花歌標本』

2021年ベスト音源、最後です。昨年ライブシーンの復興と共に良盤がめちゃめちゃリリースされたしインディーズバンドも意外と沢山デビューしてたりするから散々悩んだのだけれど、せっかくなので今一番誰かに聴いてほしいアルバムを選ぶことにしました。僕自身、最近時々途方もない不安に駆られて明日のことさえ想像出来なくなってしまう瞬間が訪れる時があるのだけれど、本当にヤバくなった時このアルバムに入っている曲達に支えられることが、きっとこれからもずっとあるのだろうな、と感じています。

GOOD ON THE REEL『花歌標本』(2021年6月リリース)

突然個人的な話をするのですがお許し頂けたらと思います。

ちょっと前まで所属していた職場の先輩に、音楽の好みがかなり合う方がいたんです。決して沢山会話をしたわけではなかったのですが、仕事の指導もとても丁寧で、新人で呑み込みの遅かった僕にもかなり根気よく話しかけてくださり、仕事の合間に好きな音楽について会話を交わすのもとても楽しかったです。

その当時いた職場は、辞めて冷静になった今思えばいわゆるなかなかの……ブ○ックで。まあ職業柄致し方ないと言えば致し方なかったのだけれど、その先輩は割とよく失敗をして、上司からお叱りを受けていました。後に僕も先輩と同じようなポジションについてしまうわけだけれど、そんななか、外回りの途中僕は先輩とGOOD ON THE REELの、当時最新曲だった『あとさき』の話をしました。

夕暮れの淋しい陽光が差し込む電車内で、あああと何時間したら家に帰れるんだろうなんて薄笑いを浮かべながら、先輩は「千野さんの描く歌詞は頭をポンポンしてくれるような優しさがあるから好き」と、少し俯き加減に言っていました。「この曲を帰り際、真夜中の電車の中で聴くと無条件に涙が出てくる」とも。


その翌々翌日、土日を挟んだ月曜日に、先輩は跡形もなく職場から姿を消しました。2年以上が経過し、僕もそこから離れた今でも、先輩の行方は杳として知れないままです。


未知の疫病が流行る前から、世界の何処かで新たな紛争が生じる前から、僕達の日常や肉体は決して盤石で当然なものではなく、いつ何に脅かされるかわからない不安定で儚いものだったのかもしれません。


GOOD ON THE REEL(以下グッド)はいろいろな苦悩を歌い続けてきたバンドでした。4年ぶりのフルアルバムだった今作でもいろいろな悩みや迷い、それを抱えたひとを抱きしめたり、背中を叩いたり、無言で隣に座っていてくれるような曲ばかりが詰め込まれています。これは今作に限らずここ数年の作品に言えることなのだけれど、インディーズでひっそりと支持されていた数年前まではそれらの苦しみ達が、どうしてもメインソングライターである千野さんの人生に密接に見えている部分が大きかったです。それでも『迷子センター』や『夕映』、『素晴らしき今日の始まり』、さまざまな曲がさまざまな苦しみを掬い上げてくれて、真夜中の家族も寝静まった部屋でヘッドホンから流れてくるそれらの曲に、千野さんの紡ぐ歌詞や歌に、どれほど支えられたか知れません。
それだけバリエーション豊かな言葉で生きる苦悩を綴り、時にセピア色の、時に色鮮やかな世界をたったの5人の音で描き続けてきた彼等だから、ここ数年で楽曲の中で描かれる世界観がより広くなったのは当然かもしれませんね。

それまで千野さんがあまり使う機会がなかった「わたし」という一人称が増え、女性目線の曲も増え、一人称に変化はなくともいろいろな市井のひとびとの生活が垣間見られる曲が増えました。特に今作は割とハッピーな恋愛の曲なども増えて、切なさや苦しみが相変わらず高い解像度で描かれている反面、可愛らしい曲も可愛らしさに思いきりギアを振り切っているように聴こえるためにアルバム全体がひときわポジティブでアグレッシブにすら思えます。ドラマや東京都の広報(!)とのタイアップがついている曲が多いというのもあるかもしれませんが。YouTubeの都の広告で『手と手』が流れてきた時まじびっくりしたよ。東京都さん、CMソングのセンスだけはまじでいいですね……(笑)

タイアップ作の1曲である『ノーゲーム』なんかバキバキのロックンロールで、こんな曲もやれるのか! と驚きました。歌詞の脱力感も相まって――ドラマの主題を汲んでいるからこその表現というのもあるかとは思いますが――グッドらしい応援歌だなと感じます。トラックの作り方も今まで以上にバリエーション豊富。


でもそんなアルバムも、後半の『目が覚めたら』で一気に空気が変わります。
この曲の主人公は、死期が近いらしいひとりの人物。白い天井を見つめることしか出来なくなって、物語の最後にはベッドにたくさんのチューブで繋がれてしまいます。

ああ、そんなところまで。と思いました。そんなひとの人生まで、彼等は掬い上げようとしてくれているのか。

詩の世界というのは本来小説や漫画と同じある種の物語なので、どんなお話でも描き出せるはずです。でもやっぱり、歌となると、作詞者が自分自身の身体を使って表現する場合が多い分、自分自身という“表層”から切り離すのが難しくなってしまうことが多いですよね。シンガーソングライターがスキャンダルを起こしたり、浮いた話題がすっぱ抜かれたりする度にそのひとが作ったラブソングがワイドショウのBGMに使われるのを見ているだけでもよくわかります。歌の世界には私小説が溢れているんです。
でも、このアルバムで彼等はそんな固定観念を越えようとしている。千野隆尋というメインソングライター/ボーカルの表層から離れ、さまざまな人格を主人公としたさまざまな人生の物語を具体的に描くことで、さまざまな苦悩に寄り添う音楽を作ることに成功しているんです。

グッドの曲のテーマは常に抽象的で、でも歌詞の描写は常に恐ろしい程に具体的です。だからこそ、1枚のアルバムで少なくとも1曲は今の自分を慰め、支えてくれる曲に出会える。「誰もいなくなった 深夜の高架下/缶ビール開ける 音だけが響く」で始まり、「誰もいなくなった 深夜の高架下/歩き出す靴の 音だけが響く」で終わる『あとさき』の生々しさに寄り添われて、あの日の僕も先輩も何とか生きていたのだと思います。

どんなひとも取り零さない、どんなひとをも掬い上げる。グッドの音楽の真摯さの現状での最高到達地点が、この『花歌標本』というアルバムなのだと思います。


2020年に結成15周年を迎えて、昨年ベスト盤も出したグッド。ここにきて本当に「すべてのひとを掬い上げる」覚悟を感じるアルバムを作るに至ったのは、タイトルにも入っている“標本”のように、今の自分達のあり方を“遺していく”覚悟からきたものなのかも知れません。アルバムの最後を飾る『標本』には、「流行り物に流されるより あなたに尚響く歌を/自分を生きた誇りとして/死んでも尚生きる歌を」というフレーズがあります。彼等の望みはもしかしたら、自分達の名前が売れることではなく、自分達が消えてなくなってしまった後の世界でも歌い続けられるような、祈りのような音楽を遺していくことなのかも。(まあ普通にもうちょい売れてほしいですけどね、ファンとしては!!!)
だって、僕達の生活や生命はいつ消えてなくなってしまうかわからないほど不安定で、儚いものだから。彼等はきっと、そのことをずっとわかっていて、だからこそ音楽を作り続けているのでしょう。次のライブすら無事に出来るかわからない、この儚い世界で、めげずに、幾つも。


彼等が標本にした、さまざまな色やかたちをした物語は、きっと今、いろいろな不安や悩みや絶望に苛まれているあなたの欠落や喪失のかたちに、すっぽりと収まってくれるんじゃないかと思います。

先輩もまだ聴いてるといいな、GOOD ON THE REEL


【店主的2021年名盤紹介・その4】Tempalay『ゴーストアルバム』

3月にしてやっと完結を目指す2021年ベスト音源。4枚目は昨年CDデビューしたばかりのこちらのバンドのアルバムをご紹介します。バンド文化が死んだと言われて久しい昨今ですが、店主はバンド狂いなので構わずバンドの音源ばかり取り上げます。わかるひとだけわかってくれればいいです。

■Tempalay『ゴーストアルバム』(2021年3月リリース)

バンド好きの間では既にお馴染み、あのKing Gnuも一目置く変態……もとい、サイケロックバンドTempalay。僕も数年前から聴いていたのでまだメジャーデビューしてなかったこと自体が意外だったのですが、こちらがメジャーデビュー1作目のフルアルバムです。ご存じという方がどの曲で彼らを知ったのか、データが多くないのでわからないのですがやっぱり『革命前夜』とかでしょうか? やっぱりそう? 僕もそう。

あの曲が収録された『from JAPAN 2』ぐらいの時期の彼らは西部アメリカ!!! 西海岸!!! みたいなイメージが強くて、オシャンティーだけどもどことなく(よい意味での)気持ち悪さの漂うミクスチャーな感じが心地好かったわけだけれど、“オシャンティー”と“無害”は紙一重なんですよね。ここ、(※個人の感想です)って脚注つけておきたいんですけれども。

個人の感想ついでに本当に勝手なことを言うのですが、最近再興してるシティポップの文脈をなぞった耳触りの良いグッドミュージックって、耳触りがいい分引っ掛かりがなくてすぐ忘れちゃうんですよね。僕は馬鹿だし音楽に関しては常に刺激を求めているジャンキーなので、どうしてもより強烈で、且つ繊細な引っ掛かりのある音楽を求めがち。

で、Tempalayのメジャー1作目なのですが。ありまくりです。その、“より強烈で、且つ繊細な引っ掛かり”。

いや、彼らに関してはもう既にアルバム『なんて素晴らしき世界』収録の『どうしよう』辺りからその化けの皮を脱いでいたような気はするのだけれど、まさかメジャーというより広い層へ届く機会を得たタイミングでこんなアルバム出してくる!? と正直正気を疑いました。Tempalayの。余計なお世話過ぎる。

1曲目から謎に祭囃子。インタールード的なそこから繋がる2曲目『シンゴ』は巨匠・楳図かずお先生の『わたしは真悟』を着想源にしたという、どんより曇天なのに謎の爽快感さえ感じられる妖しげなサイケロックだし、その勢いのままどんどん加速しながら、神的な高貴ささえ漂わせてくるのがすごい。『ガロ』的な漫画、廃墟の遊園地、真夜中のブラウン管に映されていた、タイトルすら忘れたような古い古い日本のB級怪獣映画。メインコンポーザーでボーカルの小原綾斗くんが作る曲は決して歌謡曲やクラシックのようなわかりやすい邦楽の文脈に立ってはいないし、年中転調するし、先が一切読めない展開なのだけれど、絶妙に使いこなされたヨナ抜き音階と日本的な音素材のサンプリングによって次第に脳味噌が不思議な郷愁の水の中に浸されていきます。

更に作詞。無頼としか言いようがない独特の世界観や時に皮肉っぽいテーマ性が際立って感じられるのだけれど、Tempalayの歌詞ってそもそも日本語としてとても美しいものが多いです。アルバムが展開していく程にその美しさは増していって、なかでも特に印象深いのが『冬山惨淡として睡るが如し』、そしてシングルカットもされている『そなちね』、『大東京万博』。アルバムの最後が『大東京~』で締められているのがまたニクいよね!! 二胡のようなオリエンタルなサウンドや祭祀的な合いの手、「死なないで/生きていてね」という祈りのような歌詞。シングルとして単曲で聴いても充分不思議な呪術的な神聖性のある曲なのだけれど、アルバムの最後に入った時の据わりの良さにびっくりしました。“ゴースト”の名のついたアルバムを締めくくるのに相応しい、霊的なパワーを感じる。それも天上界を描いたような手が届かない遠い神聖性ではなく、まるで道端の道祖神のような、故郷の街角のお地蔵さんのような、土着的で親しみやすい神聖性です。ああ、彼等はもしかしたらずっと、こういう表現がしてみたかったのかな、と思いました。

壮大な神話的スペクタクルなのか、それともはたまた、特撮や日本神話が好きな夢見がちな少年のひとりよがりな空想の世界に過ぎないのか。世界と自身の境界が曖昧になるような、心地好い不安感を通り抜けた先に見える、繭の中のような不思議な安らぎが得られる良盤です。


Tempalay、面白いんだよ。綾斗くんはイマドキな感じのお洒落ボーカルかと思いきや謎の鵺みたいな声で叫び始める時があってそれがクールだし、AAAMYYYちゃんは異常シンセとブラウンシュガーみたいな甘い歌声を使いこなす美女だし、自由自在に変化するドラムがカッコイイなっちゃんは見た目も自由自在に変化しすぎで見る度髪型が違うし、掘れば掘る程違った面が見えてきて楽しい。万人にはハマらないかもしれないけれど、これからもっと凄いことになるに違いないバンドです。


【店主的2021年名盤紹介・その3】Siip『Siip』

あけましておめでとうございます。偏好文庫店主・イガラシです。気が付けばもう2月!! 流石にまだ春の気配はわからない……どころかつい最近雪まで降ったわけですが、時の流れは残酷ですね。もう完全に幽霊部員ならぬ幽霊ブログです。

ともあれ今年もこんな感じでのんびりと、亀の速度でやっていこうと思いますので何卒よろしくお願い致します。

 

■Siip『Siip』(2021年10月リリース)

まず肩慣らしに、というか昨年の自分自身の責任を取って“2021年ベストアルバム”の3枚目からはじめていこうと思います。今回は昨年ひっそりと注目を集めていた“謎の覆面シンガー”Siipの1stアルバム。

Siipの作品について綴ることは、“Siip”という存在について思考を巡らせることに等しいと、個人的には思っています。なのでSiipについて考えます。

そもそもSiipとは一体何なのか。その前に思い出してほしいのが、昨年から少し前、始まったばかりの2020年代――元号で言うところの令和になって、いわゆる“覆面シンガー”が突然めっちゃ増えたと思いませんか。

この文章は個人的なものなので完全に偏見に満ちた持論を並べてしまうのですが、多分これって、音楽シーンとやらの全体が、今まで主流だったライブハウスや音楽フェスなどのリアルから、ネット上のヴァーチャルに移行せざるを得なかったからだと思うんですよね。素顔を出す必要性がなくなったから、素顔を出さなくてもブレイクアーティストになれるようになった。それは「何人もスターになれる可能性がある」という点で、フェアで素敵なことではあると思うんです。

ただ、それとは別に、歌い手の顔がわからないということに関して、聴き手が曲に共感しやすくなるというマーケティング的なメリットもあるっぽいです。歌い手や作り手の個人情報が名前と、せいぜいネット上での人格程度しかないことで、余分な情報が入り込む余地がなくなり曲の歌詞を聴き手に一層「私の歌だ」と思わせることができる。だから敢えて、本名も顔も出さずに活動“させている”プロダクションとかも今は多いんじゃないですかね。知らんけど。

だって、みんな好きじゃないですか。“共感”って。

 

では、Siipをそんな“覆面シンガー”ブームに並列させて語って良いか? と言いますと……これは間違いなくお門違いなんじゃないかと僕は思っています。

 

前置きが長くなってしまい申し訳ないです。Siipは、そもそも“共感”を求めていません。

このアルバムの中で彼――と仮に定義しておく――が綴るのは、平行世界に存在する神話のような物語です。その主人公はどう考えても人間ではなく、現代の多くの人々が理解しやすい言い回しで表現するならば、“神”のようなものです。

1曲目に配された『Panspermia(πανσπερμία)』は宇宙の創生記録。生命起源の一説として知られるパンスペルミア説の名前を冠したこの曲を満たしているのは、どうしようもなく儚い“淋しさ”。水の音のようなアンビエント的なサウンドの中、揺蕩うような歌声は時に少女のようであり、少年のようであり、老婆のような頼りない揺らぎと朗々とした神託に似た響きの間を自在に行き来します。

テーマは総じて壮大なのに“彼”の歌はどこまでも淋しげで、まるで“彼”が謳う神話の中に生きる“神”は、ひとりぼっちで広い宇宙に生きることへの淋しさから、生命を生み出したとされているようです。

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聴き進めていく程に、この神話世界での“神”的なるものはある種の人格のようなものを手に入れていきます。“神”的なるものは自ら生み出した生命を愛そうと努力し、嫉妬や驕りに狂って壊れていく生命たちを時に皮肉な眼差しで見つめ、それでもまだ諭そうと言葉を投げかけます。そうしてひとりで祈る“神”的なるものの周囲には、少しずつその存在に気付いた生命たちが集まり、気が付けば正に“神”のように祀りあげられている。それまで“彼”ひとりの歌声を重層的に重ねることで奥行きを表現していた楽曲が、『Walhalla』で一気に混成コーラスを取り入れて燃え上がる炎のように激しく変化しているのが、信仰の誕生を示しているように聴こえて少し怖い。

それまで敢えて人間が奏でる温かみを感じさせない音作りやボーカルスタイルのものが多かった中、異彩を放っているのが『オドレテル』。喉の奥から絞り出すようなこの時の“彼”の歌声からは、どんなに生命たちを愛し、共に生きようとも、“神”的なるものであるそのボーダーラインを越えられずこの世の栄枯盛衰を止めることが出来ない、それどころか、わかり合うことさえ出来ない己の、万能であるが故の無力さを痛感した、ひとならざる者の哀しみを感じます。

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Siipは云わば、この1枚のアルバムの中で“神”を、感情や痛覚を持つ“ヒト”として描こうと試みているようです。それは途方もない思考実験の結晶であり、文字通り作詞における神の領域へ踏み込む行為。当然僕達人間は神様にはなれないので、神的なるものに共感することなど不可能ですよね。だけれど、Siipはこのアルバムで、それに成功している。この“神話”の主人公の気持ちを想い、僕達は涙さえ流します。この時の感情は一見するといわゆる共感のようなものではありますが、僕はこの感情を共感ではなく追体験であると考えます。

 

物語の世界では、僕達はどんな存在にもなれる。宇宙人にも、魔法少女にも、もちろん神様にだってなろうとすればなれるのかも。それは決してそれらの登場人物に共感しているのではなく、彼らが抱く感情や彼らが経験した物事を、物語という世界の中でだけ“追体験”しているからだ。これこそが音楽をはじめ、文学や漫画、すべての芸術の本来の醍醐味のひとつであると僕は考えます。

Siipは、この頃増えた数多の“覆面シンガー”のように、共感を求めない。それどころか、音楽を一個人の生活に彩りをもたらすBGMではなく一編の壮大な物語として魅せ、それを聴き手に追体験させる装置として己を位置づけているように思えます。だからこそ、自分自身の顔は要らない。自分自身の情報は要らない。自分自身の名前は要らない。Siipとは、そもそも人物名ですらないのかもしれません。「結局音楽はBGM」とキュウソネコカミが歌ってから久しいですが、“彼”の存在はそんな現代への痛烈な批判なのかもしれませんね。

 

因みにSiip、僕も敬愛しているとある有名バンドのボーカリストとの相関性についてよくまことしやかに語られていたのですが、さっき話したように“Siip”それそのものを人物ですらないと認識するならばその正体が“彼”であるかそうでないかという問題すらどうでもいいんじゃね? とも思います。もしも“彼”だったとしても普通に面白いですし、深掘りするのも野暮ってもんです。だってあんなに美しい神話を地上に届けるための装置が、素晴らしい歌い手である“彼”の身体を借りて顕現したとしたら、それこそ現代の神話じゃないですか。普通に良すぎる。

Siipが本当にこの物語を伝えるためだけに存在した装置であるならば、このアルバム1枚でこの世からいなくなってしまうミュージシャンなのかもしれません。それもまた一興と思わせる何かが、“彼”にはあります。

 

 

 

 

【店主的2021年名盤紹介・その2】ビレッジマンズストア『愛とヘイト』

昨日に引き続き2021年リリースの音楽アルバムから好きなやつをピックアップしてレビュー書くやつをやっています。年内の更新はこれでひとまず終了、また年明けから再開します。何故なら今年出たアルバムでまだ回収しきれていないやつがあるからだ!!! 11〜12月リリースの作品とかほぼ聴けてない!!! 中田裕二とかLACCO TOWERとか絶対リスインしちゃうじゃん!!! どうしてこんな土壇場でリリースするの馬鹿!!!(理不尽なオタク)

それではそんな感じのパワーいっぱいな作品の紹介をどうぞ(は?)

 

 

■ビレッジマンズストア『愛とヘイト』(2021年7月リリース)

ビレッジマンズストアは今回約3年ぶりの新譜。とは言え彼等はあまり音源のリリースが多くないのんびり屋なところも魅力のバンドなのでこの頻度は彼等にとっては早いぐらい。いっそ狂気を感じる程にライブをするひとたちだから、その機会の多くを奪っていった2020年への恨み晴らさでおくべきかとでも言わんばかりのパワーと時間をすべてアルバム制作に注ぎ込んだのかもしれん。

実際曲のクオリティもおいそれと評価するだなんて恐れ多いぐらいに仕上がりがすごい。リードトラックの『猫騙し人攫い』なんか冒頭の歌、サビのメロディにギターのリフまでキャッチーすぎてびっくりしちゃった。どうしてこれがタイアップついてないの。時代なの。時代が悪いの。

キャッチーという概念はロックンロールとは無縁というか、対極の位置にあるもののような気もするのだけれど、そもそも日本のロックミュージックの源流には歌謡曲があって両者は切っても切り離せない関係にあるので、そういう点ではごく自然だし自身のルーツに対してとても真摯なバンドなのだなと改めて感じました。そろそろなんでもいいからTikTokとかでバズってくれ。

 

作詞がまたすげえんだ。ボーカル兼メインコンポーザーの水野ギイさんは独特の歌声や美しすぎるヴィジュアルばかり注目されがちだけれど、僕は個人的に彼の事をめちゃめちゃ優れた詩人だと思っているんです。「猫騙人攫(びょうへんじんかく)」という謎四字熟語の爆誕に、『Anarchy In The T.A.X』での「税(TAX)」と「抱き合おうぜ」の「ぜ」をかけたライム。中でも特に凄まじいのが『御礼参り』の歌詞。ライブでも既によく披露されていた曲だけれど、僕は個人的にこの曲はビレッジマンズストアの真髄が詰め込まれているなと感じています。彼等の楽曲って元々根暗や陰キャ、過去にイチモツ抱えた人間に優しい音楽だなと思っているのですが、別にそれらの性質により傷ついた僕達の心を癒してはくれないんですよね。逆に案外厳しくて、“あの頃”の記憶をほじくり返してケロイドを引っ掻くようなモチーフが多い。先述のKEYTALKの時の義勝さんの作詞の際も触れたんですが、ギイ様の作詞も彼と同じく日本語ロックに映える“抽象”と“具象”のバランスが丁度良くて、それがまた“あの頃”の傷を引っ掻く描写を適度に和らげてくれているんです。だからこそ詩として美しいし、だからこそ汎用的に、様々なタイプの陰キャのケロイドに刺さるんですよね。程よく抽象的である事により射程範囲が広がっている。同級生の嘲笑! 誰もいない教室! 帰る場所のない家! 自室の片隅でヘッドホンつけてロックンロールを聴いて、いつかいつかあいつらに逆襲してやるんだと夜道を引き摺る釘バット!!! って感じ。ある種共感性羞恥的なヒリヒリ感を覚えるのですが、それがまたかえって、「このひとたちの音楽なら、どんなにどうしようもない感情でもいつでも受け止めてくれるんじゃないか」と思わせてくれる。多分ギイ様ご自身もそうやって、音楽や詩に慰められてこのどうしようもなく醜いこの俗世を生き抜いて来られたのでしょう。


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そもそもが『御礼参り』はライブ会場限定で販売されていたシングル曲なのですが、このアルバムにはそういう曲が結構収録されています。それらの曲が出た頃にはこのアルバムの構想はまだなかったんじゃないかと思うのですが、元々アルバム曲だったかのように馴染んでいる。それはつまり、このアルバムのコンセプト自体が彼等のこれまでの作風の根底を成しているもののひとつだということなんじゃないかと。“愛”と“憎しみ”。相反するこのふたつの概念ですが、人生において切り離せないものです。

それを考える上でキーになるのが、冒頭の『ラブソングだった』と最後の『LOVE SONGS』両方に登場する印象的なフレーズ「サヨナラだベイベー」。これ、双方とも似たタイトルしてるんですけど、冒頭の方はインタールード的なバラードで最後の1曲がアップテンポで優しいロックンロールなんですよね。バラード始まりという時点で構成にかなりびっくりしたんですが、この2曲に共通しているフレーズはいずれもメロディも一緒。この2曲がアルバムの前後を飾る事で一貫性のある、構築的な印象になります。この仕掛けがある事によって、バラバラに生まれたはずのシングル曲達までもが1本の糸に結ばれ、一貫したテーマが浮き彫りになってくる。その“一貫したテーマ”こそが「サヨナラだベイベー」なのかもしれません。

「さようなら」という言葉はそもそも、相手へ愛がないと言えない言葉です。単なる挨拶としてならばそりゃ誰にでも言えるでしょうが、袂を分かつ相手を“送り出す”という行為は、本当に相手の行く先の幸せを祈れない限りおいそれとは出来ないはずです。相手が恋人ならばあわや次の恋では苦しんで別れ、自分のもとに帰ってきてほしいだなんて思ってしまうかもしれませんし、相手が友人でも相手の都合を考えずに無闇に引き止めてしまうかもしれない。「サヨナラだベイベー」の言葉に辿り着くまでには色々な苦しみや憎しみ、恨みを乗り越え、真の愛を見つけないといけない長い長い道程があります。

ビレッジマンズストアはライブハウスで成り上がってきたバンドで、既に中堅と言われても良いキャリアを積んでいます。今までも、そしてこのご時世では余計に、中途脱落を繰り返して消えていってしまった親しい才能達がたくさんいるはず。そんな無数の夢の亡骸に「サヨナラ」を繰り返して今の彼等は晴れ舞台に立っているのだと、その切実な覚悟とそれを裸のまま叩きつけないお洒落さに感服しきりの1枚でした。

あと初回限定盤のブックレットも見て!!! 裏表紙だけでも見てって。水野ギイの美しい背中を前に共にひれ伏してくれ。

 

 

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【店主的2021年名盤紹介・その1】KEYTALK『ACTION!』

最近更新止まっており申し訳ございません、店主イガラシです。noteの方やお仕事として頂いた書き物は元気にやっているのですが、こちらで出来そうな企画などが見当たらなかったり、やってみたい事はたくさんあれど時間がなかったりするまま年末を迎えてしまい……。いやはや、言い訳ばかりで新しい年を迎えてしまうのも情けないので、ひとまず年始に向けて2021年にリリースされた推しなミュージシャンのアルバムの中から特に印象深かったものを幾つかピックアップして語るやつをやろうと思います。

前もって書いておきますが、別にこれ、順位をつけようってわけではないです。その辺の音楽メディアやいわゆる通の方がやってらっしゃるよくあるブログみたいにどのアルバムが1位だとか2位だとかランクをつける意図もないですし、ここで取り上げなかった作品が良くなかったわけでもないです。ただただ僕の中で様々な事情から印象的だった作品を選りすぐってご紹介する、マジの“2021年を表す盤”達という事になります。では、さっそく行ってみましょう!!!

 

KEYTALK『ACTION!』(2021年8月リリース)

約2年ぶりのKEYTALKの新譜。ファンとしては本当に「待ってました!!!」という気持ちで、相当気が向かない場合以外はどんなものを出されても美味しく頂く気満々だったのですが、想像していた以上に沁みました。

これは僕の持論なのだけれど、日本語のロックってあんまり生々しい、私小説みたいな具体性のある言い回しと言うのは向かないものだと思っていて。具体的な地名なんかも「百道浜も君も室見川もない」程度のスケールの方が綺麗に見えると思っているんですが、KEYTALKはその辺りの力加減が絶妙なソングライターばかりが集まっているバンドだと思うんですよね。生々しい小説的表現となるとクリープハイプぐらいブラッシュアップする必要性があって、その点KEYTALKの、特に義勝さんが手掛ける作詞の抽象と具象の狭間を行き来するような表現はとても日本語の“詩”らしくてすっと胸に染み入るんです。日本語ロックを、特により幅広い層へポップに響かせるためには、“詩”である必要性がある。

本作では特に『大脱走』『不死鳥』『あなたは十六夜』が白眉。リード曲にもなっている『大脱走』なんかはほぼ抽象的な言葉遊びに溢れているのだけれど、タイトルとサビの印象的な部分に配された“大脱走”というフレーズから、ああこの曲は何か強大な力から逃げ出そうとしているひとの歌なのだなと認識させる事に成功している。聴き手の情緒によって、何かの追っ手からなのか、権力からなのか、はたまた脱獄でも図ろうとしているのか……と想像が働きますよね。

僕は情勢的に、自由な行動が制限されがちなライブシーンや果てはこの世の中すべてに対する宣戦布告のような“ポジティブな怒り”を表現しているのではと想像するのだけれど、真実は天才・首藤義勝のみぞ知るところです。

そんなこんなで怒りや淋しさ、切なさ、勿論ネガティブな気持ちだけでなく夏を目前にしたワクワク感や恋心、色々な感情が想像力を掻き立てる絶妙なドラマチックさで描かれるアルバムになっているのだけれど、ここでアルバムのジャケットデザインを振り返ってみましょう。


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(スクショめっちゃ撮った)

ご覧ください。映画の撮影現場で使用される、いわゆるカチンコってやつですね。

アルバムタイトルに引っかけたデザインなのだと思うのですが、そもそもこのタイトルには“動き出していく”といった意味合いが込められているそうです。不自由を強いられた2020年を乗り越えて、ここからまた動き出していこうというような意味でドラムの八木優樹大先生がつけられたのだと思うのですが、これがまた意味深長。相変わらず多彩な曲達を1曲1曲聴いていくと、それらはまるでバラバラの物語と作風の映画のような趣きを感じるんです。

多分ですが、彼らの最大の売りである多彩な作風と、さっき触れた聴き手の想像力を掻き立てる抽象と具象の狭間を行き来する“詩”が、聴き手の中でそれぞれの物語を醸成するためなのだと思います。言わば脚本・監督・主演:KEYTALKによる、僕達それぞれに向けられたオンリーワンの物語集。

ここでアルバムの後半、特に最後の2曲にフォーカスしてみましょう。義勝さん作詞曲による優しいラブソング『愛文』と巨匠作詞曲のバラード『照れ隠し』。どちらも大事なひとへの想いを素直に伝えられないもどかしさとそれを乗り越えたようなストレートさを感じる曲なのだけれど、ここだけ急に世界観がミニマルになります。誰もが共感出来る、とは敢えて言わないけれど、きっと誰もが追体験出来る物語になっているんじゃないかと。だって相当家庭環境が最悪じゃない限り親やそれに準ずる優しい存在への感謝って誰もが抱きうるものだし、恋人だけでなく友達なんかへの感謝ってなかなか伝えられないものだし、自分に優しくしてくれるひとに対して無碍に扱ってしまって後悔した経験って、きっと多くのひとにとって身近なはず。巨匠の「初めて食べたアイスクリームの優しい甘さ」という妙に具体的な描写が郷愁を誘います。

綺麗で優しい歌だけれど、どちらも現実に向き合わなければならない物事について歌っている。他の収録曲のドラマチックさとは少し違っていて、まるで「これはあなたたちの物語だよ」と言ってくれているよう。「これはあなたたちの人生という物語だよ」。

幾重にも重ねられた劇的な物語達が、彼らの音楽を享受する僕達人間の“人生”というかけがえのない物語へと集約されていく。その物語は決して映画のように自由ではないし、ロマンチックでもカッコよくもないし大団円もないけれど、だからこそそれまでのたくさんの劇的な物語が必要なのだと感じさせられます。彼らは常日頃から「聴いたひとたちが元気になれるような音楽を」と言い続けながら、決して明るいだけじゃないポップロックをやり続けているバンドマンなわけだけれど、彼らの紡ぐ物語達はやはりかけがえのない、僕達がリアルに生きる“人生”という物語を守り、より楽しむための現実逃避の舞台として存在してくれているのだなと改めて思い知らされました。

現実逃避は決して悪いものではありません。現実を逞しく生きるためには、時には非現実が必要なのです。KEYTALK監督の次回作が今から楽しみです。

 

正直、ツインボーカルのおふたりによる作詞曲の楽曲ばかりな事に気づいた時は(一体どんな意図が……?)とやや戦々恐々としたのですが、「純粋に今アルバムに入れたい曲を選んだらたまたまそうなった」というような旨の発言をインタビューでされているのを読んで安心しました。なんて職人気質なの。それにしても……小野武正先生作曲八木大先生作詞による幻の曲『魔ガレー』はいつリリースになるんですか!!!

 

 

 

【2018年4月執筆】ディスクレビュー:Plastic Tree『doorAdore』:明日の朝は海へ行こうか

「adore」と言う単語を、僕は知らなかった。

辞書を引くと「敬慕、崇拝」と言う意味らしいが、奇しくも僕にとって誰よりもこの言葉が相応しいロックバンドは、プラスティックトゥリーだ。

もう10年近く憧れ続けているプラも、気がつけば去年で結成二十年。二十年!?目を疑うが二十年である。だってもう皆さん出会った時から全然顔変わってないもん。こわい。そんな彼等の二十年記念(彼等はバンド名に因み、敢えて「樹念」と表記している)イヤーを締めくくるアルバム、『doorAdore』。相変わらずと言うべきか否か、とても美しくセンチメンタルで、そしてなんだか前向きなアルバムだった。

二十年の集大成、だからと言ってかつてを回顧したりはしていない。そこにいたのはまさしく今現在のプラだった。



Plastic Tree/「遠国」MUSIC VIDEO (from Album「doorAdore」) - YouTube

一曲目、『遠国』から一瞬で心を掴まれる。意味深なタイトル、遠くの森から迫ってくる葉の揺れる音のようなイントロ、目の前には玉虫色に輝く羽虫が、群れを成して飛び交う。目も眩むような遠国の森の景色が一瞬にして広がるその音には、滲み出すやるせなさと染み出す甘さに彩られた叶わぬ恋の詩が乗っている。

森を抜けると、気がつけば朝。どうやら切ない悪夢を見ていたらしい。ベッドから出て街に出かけると、そこはたくさんのヒトと、鉄と、思念の匂いに満ちた都会。
疾走感溢れるギターロックやテクノ、フュージョン、何処となく代官山のカフェで流れてたらグッときちゃいそうな雰囲気の楽曲が中盤では存在感を増してくる。『恋は灰色』や『エグジスタンシアリスム』なんか、ヴィジュアル系そんなに知らない最近の邦ロック好きの若い子にも薦めたいぐらいに、めちゃくちゃカッコイイ。

シングル曲のアレンジも秀逸。音がライブっぽくなってたり、雨音のエフェクトが入ってたりして情景が想像しやすい。


一見不規則で複雑だけれど何故か心地よい不思議なビートに、唐突に繰り出されるテクノ調サウンド。音も毎度攻めまくりである。特にギターのアキラさんが凄い。嘆きや遠吠えのような狂おしくも雄々しい攻め攻めの弾き倒しギターが小気味よく切ないが、一方で打ち込み職人としての腕前は一流と言って差し支えないし、『サーチ アンド デストロイ』での作詞作曲者としての凄まじさよ……この凶悪なタイトルを良い意味で裏切る静謐で禍々しい音に、タイトルを真正面から裏切らない凶悪な歌詞が最早発明品。ドラムのケンケン氏だって勿論負けちゃいない。特に『残映』『いろつき』に顕著だが、彼は実験的なのに何処か懐かしい、「プラっぽい」曲を作るのがとても上手だ。一番最後に加入して一番最後に作詞作曲を始めた彼は、きっと誰よりもプラのファンなんだろう。

ケンケン氏の加入によって、プラが「プラっぽさ」と改めて向かい合うきっかけにもなったんじゃないか、とも思う。そして僕はこのアルバム全体からとても強く「プラっぽさ」を感じた。

それは、優しさだ。


プラの曲は、どんなにわけわからんカオティックパンクでもなんとなく優しい。このアルバムにもサブコンポーザーでありベースの正さんによる『scenario』と言う凶悪なナンバーが収録されているが、サビメロのキャッチーさと何処か拙い少年の独白のような歌詞に安心感すら覚える(僕だけかもしれないけれど)。
それは作詞作曲者正さんの元々のひとの善さでもあり、センスでもあり、そして多分、彼が最も影響を受けたミュージシャンであろうボーカル、そしてメインコンポーザー有村竜太朗のお陰でもあるのだ。


有村さんは昔から優しい言葉を歌うひとだった。そりゃあ「狂ってる僕にカミソリを!」とか歌っちゃう時代もあるさ、ヴィジュアル系だもの。しかしそれでも、そこにあるのはいわゆるアングラバンドメンの凶暴性ではなく、病んでるひとに寄り添って一緒に病んでくれる優しさだったと思う。
あの頃からだいぶ姿かたちを変え、初期衝動こそなくなったけれども、いつまでも彼等は若々しく優しい。そしてそれは、ひとえに有村さんの、特に作詞が持つ優しさの影響が大きいのではないか。

発明家のアキラさん、プラが大好きなケンケン、そしてどんなタイプの楽曲でも優しさを隠さない(隠せない?)正さん。絶対にキャラ被りしない個性的な三人の楽曲が同じアルバムの中で「プラっぽい」存在感を示せるのは、そんな有村さんの優しさに三人が影響を受け、そして、お互いの事をミュージシャンとしてリスペクトし合っているからなんじゃないだろうか。どんな熱心な海月(ファン)よりも、きっと彼等はお互いの、そして有村竜太朗のファンだ。

絶望にさえ寄り添って一緒に嘆いてくれるプラの優しさ、「プラっぽさ」はずっと健在だ。しかし、それは明らかに形を変えてはいる。そりゃあそうだ、だって彼等も大人になり、歳をとる。外見変わってなくたってヒトとして成熟するもんだ。それがとあるひとには合わなくなるかもしれないし、そこの君には更に好みになるかもしれない。それはわからない。でも、僕は前向きに捉えたい。だって今のプラはとても美しいから。だってまさか、プラの楽曲からこんなにも「前向きさ」を感じるとは思わなかったから。


最後から二曲目の『ノクターン』で、僕達は夜を迎え、また悪夢の森の奥に舞い戻る。今度は眩い羽虫の群れさえ見えない真っ暗闇の森で葉音を聞きながら、何処へ向かうのでもなく彷徨う。

今までのプラだったら、ことこの二十年を経る前のプラだったなら、ここでこのアルバムは、物語はおしまいだっただろう。でも、今の彼等はここで終わらせてくれない。哀しみに陶酔する事を許してはくれない。

ノクターン』の歌詞に、次のようなフレーズがある。

離れ焦がれ 気が遠くなる
ふらりふかい森にいるようで
胸も腕も ひとりぼっちだと解ったら
明かりのつくドアを探そう


「まさしく天使」だと思う程愛おしかった恋人を失った、途方もない悲しみを描いた歌詞。いつか来たる「喪失を認めなければならない瞬間」を想うこの歌詞は、次のドアを探さなければいけない=失ったひとを忘れ、前に進まなければならない、と言う残酷な摂理を描写しているようだ。だけれど、悲しく残酷であると同時に、とても前向きだとも取れる。

その証拠に、最後の一曲『静かの海』は物悲しくもとても清々しい別れを描き出すバラードだ。シングルB面だった曲だが、まるでこのアルバムのために最初から用意されていたような不思議な曲。この曲が最後を飾る事によって、まるで夜明けと共に深く暗い森の奥にあるドアを開き、しらじらと明ける朝の海に辿り着いたようなカタルシスが訪れるのだ。

かつて絶望にただただ寄り添い、一緒に嘆いたり暴れたりするだけだったプラは、気がつけば僕達を新しい朝へ導いてくれようとしている。


いつも変わらぬ優しさで包み込むような音楽を鳴らし、しかし変化する事を恐れない。退かぬ媚びぬ省みぬ、それでいてメンバー皆がお互いを尊敬し合う関係にある。プラスティックトゥリー、理想のロックバンドすぎて憧れるしかない。「adore」を冠したアルバムに、改めてそう思わせてもらえた。

ドアの向こうの朝陽を浴びた海は、どんな色なんだろう?そしてその海の向こうには、どんな景色が見える?
僕は敬慕する事しか出来ないし、そんなものは彼等のみぞ知る事だ。だけど、きっととても綺麗な景色なんだろうな、とは思う。