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【店主的2021年名盤紹介・その3】Siip『Siip』

あけましておめでとうございます。偏好文庫店主・イガラシです。気が付けばもう2月!! 流石にまだ春の気配はわからない……どころかつい最近雪まで降ったわけですが、時の流れは残酷ですね。もう完全に幽霊部員ならぬ幽霊ブログです。

ともあれ今年もこんな感じでのんびりと、亀の速度でやっていこうと思いますので何卒よろしくお願い致します。

 

■Siip『Siip』(2021年10月リリース)

まず肩慣らしに、というか昨年の自分自身の責任を取って“2021年ベストアルバム”の3枚目からはじめていこうと思います。今回は昨年ひっそりと注目を集めていた“謎の覆面シンガー”Siipの1stアルバム。

Siipの作品について綴ることは、“Siip”という存在について思考を巡らせることに等しいと、個人的には思っています。なのでSiipについて考えます。

そもそもSiipとは一体何なのか。その前に思い出してほしいのが、昨年から少し前、始まったばかりの2020年代――元号で言うところの令和になって、いわゆる“覆面シンガー”が突然めっちゃ増えたと思いませんか。

この文章は個人的なものなので完全に偏見に満ちた持論を並べてしまうのですが、多分これって、音楽シーンとやらの全体が、今まで主流だったライブハウスや音楽フェスなどのリアルから、ネット上のヴァーチャルに移行せざるを得なかったからだと思うんですよね。素顔を出す必要性がなくなったから、素顔を出さなくてもブレイクアーティストになれるようになった。それは「何人もスターになれる可能性がある」という点で、フェアで素敵なことではあると思うんです。

ただ、それとは別に、歌い手の顔がわからないということに関して、聴き手が曲に共感しやすくなるというマーケティング的なメリットもあるっぽいです。歌い手や作り手の個人情報が名前と、せいぜいネット上での人格程度しかないことで、余分な情報が入り込む余地がなくなり曲の歌詞を聴き手に一層「私の歌だ」と思わせることができる。だから敢えて、本名も顔も出さずに活動“させている”プロダクションとかも今は多いんじゃないですかね。知らんけど。

だって、みんな好きじゃないですか。“共感”って。

 

では、Siipをそんな“覆面シンガー”ブームに並列させて語って良いか? と言いますと……これは間違いなくお門違いなんじゃないかと僕は思っています。

 

前置きが長くなってしまい申し訳ないです。Siipは、そもそも“共感”を求めていません。

このアルバムの中で彼――と仮に定義しておく――が綴るのは、平行世界に存在する神話のような物語です。その主人公はどう考えても人間ではなく、現代の多くの人々が理解しやすい言い回しで表現するならば、“神”のようなものです。

1曲目に配された『Panspermia(πανσπερμία)』は宇宙の創生記録。生命起源の一説として知られるパンスペルミア説の名前を冠したこの曲を満たしているのは、どうしようもなく儚い“淋しさ”。水の音のようなアンビエント的なサウンドの中、揺蕩うような歌声は時に少女のようであり、少年のようであり、老婆のような頼りない揺らぎと朗々とした神託に似た響きの間を自在に行き来します。

テーマは総じて壮大なのに“彼”の歌はどこまでも淋しげで、まるで“彼”が謳う神話の中に生きる“神”は、ひとりぼっちで広い宇宙に生きることへの淋しさから、生命を生み出したとされているようです。

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聴き進めていく程に、この神話世界での“神”的なるものはある種の人格のようなものを手に入れていきます。“神”的なるものは自ら生み出した生命を愛そうと努力し、嫉妬や驕りに狂って壊れていく生命たちを時に皮肉な眼差しで見つめ、それでもまだ諭そうと言葉を投げかけます。そうしてひとりで祈る“神”的なるものの周囲には、少しずつその存在に気付いた生命たちが集まり、気が付けば正に“神”のように祀りあげられている。それまで“彼”ひとりの歌声を重層的に重ねることで奥行きを表現していた楽曲が、『Walhalla』で一気に混成コーラスを取り入れて燃え上がる炎のように激しく変化しているのが、信仰の誕生を示しているように聴こえて少し怖い。

それまで敢えて人間が奏でる温かみを感じさせない音作りやボーカルスタイルのものが多かった中、異彩を放っているのが『オドレテル』。喉の奥から絞り出すようなこの時の“彼”の歌声からは、どんなに生命たちを愛し、共に生きようとも、“神”的なるものであるそのボーダーラインを越えられずこの世の栄枯盛衰を止めることが出来ない、それどころか、わかり合うことさえ出来ない己の、万能であるが故の無力さを痛感した、ひとならざる者の哀しみを感じます。

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Siipは云わば、この1枚のアルバムの中で“神”を、感情や痛覚を持つ“ヒト”として描こうと試みているようです。それは途方もない思考実験の結晶であり、文字通り作詞における神の領域へ踏み込む行為。当然僕達人間は神様にはなれないので、神的なるものに共感することなど不可能ですよね。だけれど、Siipはこのアルバムで、それに成功している。この“神話”の主人公の気持ちを想い、僕達は涙さえ流します。この時の感情は一見するといわゆる共感のようなものではありますが、僕はこの感情を共感ではなく追体験であると考えます。

 

物語の世界では、僕達はどんな存在にもなれる。宇宙人にも、魔法少女にも、もちろん神様にだってなろうとすればなれるのかも。それは決してそれらの登場人物に共感しているのではなく、彼らが抱く感情や彼らが経験した物事を、物語という世界の中でだけ“追体験”しているからだ。これこそが音楽をはじめ、文学や漫画、すべての芸術の本来の醍醐味のひとつであると僕は考えます。

Siipは、この頃増えた数多の“覆面シンガー”のように、共感を求めない。それどころか、音楽を一個人の生活に彩りをもたらすBGMではなく一編の壮大な物語として魅せ、それを聴き手に追体験させる装置として己を位置づけているように思えます。だからこそ、自分自身の顔は要らない。自分自身の情報は要らない。自分自身の名前は要らない。Siipとは、そもそも人物名ですらないのかもしれません。「結局音楽はBGM」とキュウソネコカミが歌ってから久しいですが、“彼”の存在はそんな現代への痛烈な批判なのかもしれませんね。

 

因みにSiip、僕も敬愛しているとある有名バンドのボーカリストとの相関性についてよくまことしやかに語られていたのですが、さっき話したように“Siip”それそのものを人物ですらないと認識するならばその正体が“彼”であるかそうでないかという問題すらどうでもいいんじゃね? とも思います。もしも“彼”だったとしても普通に面白いですし、深掘りするのも野暮ってもんです。だってあんなに美しい神話を地上に届けるための装置が、素晴らしい歌い手である“彼”の身体を借りて顕現したとしたら、それこそ現代の神話じゃないですか。普通に良すぎる。

Siipが本当にこの物語を伝えるためだけに存在した装置であるならば、このアルバム1枚でこの世からいなくなってしまうミュージシャンなのかもしれません。それもまた一興と思わせる何かが、“彼”にはあります。