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店主イガラシのnoteが更新されました(2021.10.23)

魅せてくれ、モノホンの“レトロスペクティブ”ーディストピア東京、真夏の下北沢でビレッジマンズストアとベッド・インを観る|イガラシ@igaigausagi

店主イガラシのnoteが更新されました(2021.10.16)

 

別にライブじゃなくてもいいーー真夏に観た小林私と“ミュージシャンの応援のしかた”について|イガラシ@igaigausagi

【2020年2月執筆】感想文:映画『ヴィニルと烏』:地獄の青春文学と俳優・井口理の“含み”

※この記事は2020年2月に店主イガラシのnoteにて公開された記事に加筆修正を加えたものとなっております。情報は記事執筆時点のものとなっておりますので、何卒ご了承ください。

 

 

2019年11月、期間限定上映をしていた際に観賞。監督は若手のホープ、横田光亮氏。主演から脚本まで務める八面六臂っぷりの監督の魂が詰め込まれた30分に陰と深みを宿すのは、俳優・井口理。そう、King Gnuの彼(推し)ですね。


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実は僕がKing Gnuを知った2018年の段階でもとある映画祭で上映されていて、その時は運悪く高熱を出してしまい機会を失ってしまったのだけれど、故あってお世話になっているツイッターのフォロワーさんにお誘い頂き、やっと観賞の運びと相成りました。長い道程だった。

簡単に説明すると、物静かな男子高校生がクラスメイトから酷いいじめを受け、それに反撃するためにボクシングの心得のある兄貴から闘い方を教わる――と言うようなお話なんですけれど、多分される方でも巻き込まれた方でも、かつていじめに関わった経験のあるひとはフラッシュバックとかしちゃうんじゃないかな、と言う程度には生々しいです。映像はまだ荒削りな感じも多分にあるのだけれど、そこは流石マカロニえんぴつのMVも監督した華々しいキャリアのある期待の横田監督、「まだ経験も浅いし、こんなもんだろ」と言う感じの粗の多さでは決してなくて、その荒削りさがドキュメンタリーのような、青春文学のような芸術性と生々しさに繋がっているように思えるのが凄い。

個人的に一番魅力的に感じたのは、ワンカット毎の画ヂカラの強さ。どのシーンを切り取っても絵になるんだから最強だよ。特に大好きなのが、クライマックスの校舎裏で横田監督演じるジュンと井口くんが演じるいじめっ子(サッカー部のエース然としている)が対峙するシーン。絵として完成度が高すぎていっそ神々しいレベルだった。パネルにして飾りたい。

作品としての魅力は当然ながら、念願だった役者・井口理もそれはそれは末恐ろしいものがありました。初っぱなからフルスロットル。暗く沈んだ、森の奥の澄んだ沼みたいな瞳でこちらを覗き込み、可愛らしく整った相貌の真っ白な陶器のような頬を醜く歪ませて笑うんですよ。怖い。この世の軽蔑の権化みたいな表情してる。悪い思い出ががっつり蘇るかはたまた新しい扉が開く音が聴こえるかのいずれかですあれは。でもその軽蔑そのものの薄ら笑いの奥には確実に、彼自身が抱える虚無や苦しみがあるのだろうな、と思わされる奥の深さのある恐ろしさでした。(2021.9追記:最近も色々と話題になる事があったけれど、いじめ自体は絶対に許されるものではないししてしまった過去は一生してしまった方に付きまとってほしいとすら思うのだが、「ただウザいから」いじめるヤツと相手に何かしらのコンプレックスや羨ましさなどを抱いているが故にいじめてしまう、というようなケースは明確に違うわけで。この物語において井口くんが演じたいじめっ子が何故ジュンをターゲットとしたのかは明確には描かれないのだけれど、きっとこのいじめっ子の彼は後者なのだろうな、と思わせる“含み”を藝大在学中の段階で既に表現出来ていた井口理、やっぱりすげえ)

その他の役者さん達の存在感も素晴らしくて、しかも行間の読み甲斐がありまくりなのでもうちょい長尺で撮ってほしかったな~と思ってしまうぐらいでしたね。でもあれぐらいコンパクトな方が良いのかな、とにかくヒリヒリした、古いケロイドを引っ掻き回されるような映画だったから……。

 

それでも、僕はあの作品に出会えて良かったと思っています。ひとりだったら発狂してたかもだけどな!!!!!!まじでフォロワーさん誘ってくださって有難うございました……。でもこのしんどさを正しく感じられるような感性が培われたのは間違いなく、僕も主人公の彼と同じような目に遭ってきた経験があるからで、僕の人生は決して間違いじゃなかったのかな、なんて思わされたり。とにかく、ずっと浸っていたいと思ってしまうぐらい、青臭く泥臭く、苦しいのに何故か爽快な、青春の地獄を結晶化したような映画でした。

 

 

 

 

【2018年2月執筆】ディスクレビュー:KEYTALK『ロトカ・ヴォルテラ』:荒野に咲いた“紙一重”

※この記事は2018年2月に店主イガラシのnoteにて公開された記事に加筆修正を加えたものとなっております。情報は記事執筆時点のものとなっておりますので、何卒ご了承ください。


乾いた風の吹きすさぶ荒野、背を向け合う男女。男の手にはナイフが、そして女の手には銃が携えられている。かつては愛し合ったふたりだが、今は敵同士。運命が無情にも恋人達を引き離してしまったのか。今となっては彼等は”喰うもの”と”喰われるもの”。そしてその関係は、いつ入れ替わるかわからない。紙一重の愛と狂気を胸に秘めた恋人達は次の瞬間身を翻して見つめ合い、その懐に隠した刃を互いの喉元へ突きつける――。

と言った雰囲気の曲である。今年早々にリリースされたKEYTALKのシングル、『ロトカ・ヴォルテラ』。突然のポエミー極まりないが、本当にこんな感じのイメージの楽曲なので騙されたと思って聴いてみてほしい。まあ音楽を聴いて得られるイメージと言うものは個人差が非常に大きく、だからこそ楽しいわけだが、言えることはただひとつ。KEYTALK史上最高に大人っぽくセクシーな曲になっている、と言う事だ。

スピーディでありながらこぶしの回りまくった小野武正氏のギターや裏打ちで跳ねるような八木優樹氏のドラムは通常運転の安心感があるが、今までよりも更に無駄を極限まで削ぎ落とした、ミニマルなストイックさが垣間見える。激しいスラップベースがアクセントとして強烈な印象を残す重ためな音とメリハリの効いた壮大な展開は、正にラスボス。ディープでダークな実力者、魔王の風格すら感ぜられる。

作詞作曲を担当しているのは言わずと知れた天才ベースボーカル、KEYTALK好きならみんな大好き首藤義勝さん。バンドのメインコンポーザーとして数々の代表作を作ってきた彼はこの曲に関して、「歌詞に自信がある」と言ったような事をツイッター等で発言しているわけだが、その言葉に嘘偽りは一切無く本当に歌詞が美しい。リスナー個々による歌詞解釈の自由を常に掲げて作詞に携わり、普段あまり歌詞について言及したがらない彼だが、今回は流石に言わずにいられなかったのではないかと思う程美しい。

そもそもこのやたら意味深なタイトル「ロトカ・ヴォルテラ」、これは生物学用語で「捕食-被食の関係式」を意味するものらしい。僕のようなインテリぶった馬鹿には何を言っているのかさっぱりきゅうりな高次元の語彙だが、高校時代から成績優秀(情報元・武正氏)、ベーシストとしてもブイブイ言わせていた野生のインテリ義勝さんは、このいかにもドラマチックなフレーズを「相反するふたつの概念」と言うイメージを想起させる装置として物語のプロローグに据えている。そして彼のその狙い通り、タイトルの意味をグーグル先生で予習済みの僕はまんまとその歌詞の深みに落とし込まれてしまった。

陰と陽、月と太陽、光と影、そして「言葉と身体」。この曲の歌詞には様々な相反するふたつの概念同士を想起させるロマンチックでドラマチックな言葉達が絶妙に散りばめられ、それらは表裏一体、紙一重で入れ替わるアンビバレンスな存在として扱われている。

この、相反する概念の対比と言うのは義勝さんの作詞作曲における美学の根底に通ずるモチーフなんじゃなかろうかと思う。彼のつくる楽曲は基本的にアッパー一本気でもなければ、センチメンタル一本気でもない。しっとりしたミディアムナンバーの失恋ソングにもちょっと軽快な踊れるリズムを持ち込んだり、パリピ感満点のチャラ〜いダンスロックでも何処か切なげで物憂げだ。作詞も同様。わかりやすい例はアルバム“OVERTONE”収録の『MURASAKI』だ。この曲の中で彼は、「赤と青」「未来と未練」と言った概念を絶妙に対比させてみせている。

ノローグに聞こえる歌詞の語り口もまた絶妙。一人称が乏しい彼の作詞の中でも珍しく「私」と言う主観が提示されているが、決して歌詞の内容は主観的ではない。寧ろ禁欲的なまでに客観性が高く、聴けば聴く程主人公がひとりではないような、例えば女性目線と男性目線が混ざり合っているかのような表現が散見される。

これはKEYTALKが男性ツインボーカルであるせいも大きいかもしれない。例えば男女ツインボーカルで女性パートに「私」が入るとどうしても男女のデュエット感が強くなってしまうし、ソロボーカルならやっぱり単独主人公のモノローグの印象が顕著になる。ボーカルが同性ふたりならジェンダーイメージが固定される事がないから、表現の自由度が格段にアップする。

寺中“巨匠”友将氏の今までにも増して表現力がメキメキビルドアップされた深みのある歌声と、義勝氏の最近目を見張る程艶の増した甘い歌声が絶妙に絡み合い展開されるハーモニーは、時にひとりの主人公のモノローグをステレオで増幅させ、時に紙一重の相反する概念を演じ分け、時に紙一重のふたりの呼応し合う心の叫びを代弁する。美しく響き合いながらも決して混ざり合わないふたりの歌声は、正にKEYTALKの音楽の根底に潜むアンビバレンスな「何か」そのものだ。

MV公開直後から「あんまりKEYTALKっぽくない」と界隈を少しばかりざわつかせたこの曲だが、もしかしたらソングライター首藤義勝の、そしてKEYTALKと言うロックバンドの音楽の本質をも炙り出す曲なのかもしれない。

まあ、そんなとんでもねえ曲を生み出しておいてもどうせ結局歌詞についてインタビューされれば、天才よしかつはいつものようにいけしゃあしゃあと飄々と、「厨二病っぽい歌詞が書きたくて〜」なんてコメントしちゃうわけだけれども。くそう、好きだ。


【2018年2月執筆】ディスクレビュー:GOOD ON THE REEL『光にまみれて』:たとえ光にまみれたとしても

※この記事は2018年2月に店主イガラシのnoteにて公開された記事に加筆修正を加えたものとなっております。情報は記事執筆時点のものとなっておりますので、何卒ご了承ください。


暗い部屋から外に出た瞬間、陽光のあまりの眩しさに目がくらんで何も見えなくなる事がある。これは別に僕に特有の現象でも何でもなく誰もが経験しうる事だけれど、人体と言うものは実に有能で、ものの数秒で足元を確認し、眩しいながらも歩みを進める事が出来るのだ。だけど、心はそうじゃない時がある。

今年自主レーベルを立ち上げたばかりのGOOD ON THE REELが、その一作目としてリリースしたミニアルバム、『光にまみれて』。最近ドラマ主題歌やらテレビ出演やらと目覚ましい活躍を見せる彼等だ、何故このタイミングで?とちょっとびっくりしたのは否めなかった。でも、聴いてみるとそんな下世話な心配は全部吹き飛んでしまった。音の中の彼等はただただ「いつもと同じ」ブレない姿を、変わらず僕に見せてくれていた。

とにかく曲調と曲の世界観のバリエーションが凄い。たったの七曲しか収録されてないせいもあるかもしれないけれど、イイ感じに全く違うテイストの曲が満遍なく配置されていて、本当にたった七曲しか収録されてないのにやたら壮大なスケールを感じる。終わりの方とか、ちょっと神話めいている雰囲気すらある。

一曲一曲のテイストが違うのは勿論だけれど、一曲の中でも曲が進むごとにイメージがどんどん変わっていったりするのが印象的だった。特にリードトラックにもなっている二曲目『モラトリアム』。


黄昏時の海辺のような雰囲気の、ギターのアルペジオが美しいイントロが心地良い切なさを誘ってとても居心地の良い曲なのだけど、ここで油断していた僕はサビあたりで度肝を抜かれた。静かに揺れていた橙色の水面が真っ白な闇に吸い込まれ、血のように真っ赤な花びらが舞い始めたようなイメージに襲われるのだ。お得意のセンチメンタルなアコースティック調かと思いきや、彼等には珍しいぐらいに情念深い、女心を歌い上げたロックバラードへと変貌を遂げてぞくっとする。

ボーカルの千野隆尋さんは元々圧倒的すぎる歌唱力と可愛い地声で何でも歌いこなす凄い歌い手だったけれど、最近はとみに歌声が成熟した気がする。アクリル絵の具のような透明感のある声が、ざらっとした生々しい手触りを手に入れて、ヴェルヴェットや油絵のような質感を持つようになった。

音や歌の変化は勿論、盤を重ねる毎にプラスに進んでゆくのを毎回感じるのだけれど、曲の世界観、歌詞の変化も見過ごしちゃいけない要素だ。僕はGOOD ON THE REELがメジャーデビューしてから、特にシングル『雨天決行』やアルバム『グアナコの足』を経てからどんどん強くなった、「見守るひと」の眼差しを、このミニアルバムでも更に強く感じた。予感が確信に変わった、と言っても過言じゃない。

今までのグッドの楽曲は、悩みの中に没入したひとの嘆きや決意を表したものが多かった。生きる事への疑問や痛み、憂い、どうしようもなくやるせなく枕を濡らすしかない夜の孤独、失った愛、叶わなかった恋、それでも生きてゆくしかないと言う諦めにも似た切実な決意。それらが胸を打ち、自分の事のように心に迫る。

しかし最近の彼等はちょっと違う。色んな色の絵の具を混ぜたマーブル模様の沼のような悩みのるつぼで喘ぐそのひとの悲鳴ではなく、そこからそのひとを引っ張り上げ、行くべき場所へ導くひとの歌になった。

小さな傷で膝を抱えて泣きながらママの帰りを待っていた子供の「私」、どうしようもないひとを好きになってしまって途方に暮れるしかなかった「私」、少年漫画の主人公のように今目の前にある夢とそれを阻む壁しか見えない「私」。その全てが千野さんであり、その全てが僕達自身なのだ。そして彼が、彼等が紡ぐ歌は、その頃の「私」に宛てて丁寧に易しい言葉で書かれた手紙に近い。

毎日ニンゲンとして生きてると、どうしても「いい時」と「悪い時」が出てくる。いい事と悪い事は、僕等の元にどうしてもバランスよくやってきてはくれない。闇にまみれてしまえば勿論何も見えないけれど、光ばかり見ているとそれはそれで眩しすぎて何も見えなくなるかもしれない。マーブル模様の沼で喘ぐあの頃の自分の姿も、自分と同じように苦しみ喘ぐ誰かの姿も。

目覚ましい大活躍の中でも、GOOD ON THE REELはずっとブレなかった。どんなに光にまみれても、その中から小さな叫びややるせなさを見つけ出す目を彼等はずっと持っている。この歌達は、たった今ロックバンドとして存分に光にまみれている彼等だからこそ歌える、奏でられる歌なのだ。

もしも僕の目が光や闇に慣れて、盲目なままでも生きられるようになってしまったとしても、彼等の音が、向かうべき何処かへそっと連れて行ってくれるんじゃないかと思った。


O₂ ~月盤~

O₂ ~月盤~

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O₂ ~太陽盤~

O₂ ~太陽盤~

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【2018年4月執筆】ディスクレビュー:KEYTALK『Rainbow』:虹の彼方へ駆ける方舟

※この記事は2018年4月に店主イガラシのnoteにて公開された記事に加筆修正を加えたものとなっております。情報は記事執筆時点のものとなっておりますので、何卒ご了承ください。



オズの魔法使い』をご存知だろうか。

大して読書家でなくとも、誰もが子供の頃に読んだ事があるだろう童話だ。主人公の少女ドロシーは幸せに暮らしていた家族のいる街から可愛い飼い犬と共に竜巻に攫われ、家族のもとに帰る方法を探す。そんな旅の道中出会い仲良くなったライオン、ブリキの木こり、そして案山子の願いを知った彼女は、彼等の願い事をも叶えるべく三人(三体?)と共に、何でも願いを叶えてくれると言う「オズの魔法使い」のいる国を目指す——と言う物語だ。映画としてもよく知られ、Mrs. GREEN APPLEの楽曲にもテーマとして選ばれている物語だが、そのテーマソングが『虹の彼方』と言う曲だと言う事を知っている人は意外と少ないようだ。


三月にリリースされたKEYTALKのアルバム『Rainbow』。タイトルの意味するところは見たまんま、読んだまんま「虹」。多分このタイトルから受ける印象はカラフルな、色んなタイプの楽曲が沢山収録されてそうな多彩・多様な雰囲気だと思う。僕も実際そうだった。
聴いてみると、確かに耳に鮮やかな粒ぞろいの曲達が溢れていて多彩な印象を受けたが、前回の『PARADISE』の方がどちらかと言うとカラフルなイメージ。なんたって全十七曲入り、一曲につき平均三分ぐらいだったのだあのアルバム。気が狂ってるな。


『Rainbow』と言うアルバムの中に広がる世界は、一言で言って「男前」。ここにはポップなカラーリングのカラフルな世界観はない。

一曲目、『ワルシャワの夜に』のイントロが耳に雪崩込んだ瞬間、僕はまるで電流を脳に流し込まれたような痺れを覚えた。特に冒頭三曲、『ワルシャワ〜』と『暁のザナドゥ』、そして『ロトカ・ヴォルテラ』の流れがもうたまらない。もう「音楽を流し込む」なんてもんじゃない。「音楽が雪崩込んでくる」だ。行った事も見た事もないヨーロッパのダウンタウンの路地に連れて行かれたような風景が、一瞬で脳裡を支配する。これは最早「聴くハードボイルド」だった。
脳汁が炸裂する。脳味噌がエンドルフィンとドーパミンに溺れて酔っ払いそうだ。シングル『ロトカ〜』をリリースしたぐらいの頃からベースボーカル義勝さんがインタビューなどでよく言っていた「強い曲をやりたい」と言う欲求が、遂にかたちになったのだと思った。

ロックミュージシャンは誰もが「カッコイイ」音楽を目指す。KEYTALKも例外なくそれを目指しているだろうが、まだ若手のミュージシャンなんかは自分が理想に思う「カッコイイ」曲を理想通りの「カッコイイ」形で表現しきれるだけの技術や余裕を持ち合わせていないと思う。僕は小説家を志しているが、自分が本当に理想とする「面白い文章」なんて、今まで書けた試しがない。
しかし、このアルバムの中でKEYTALKは正に彼等が理想とする「カッコイイ」音楽を、的確に表現出来ているんじゃないかと思った。「カッコイイ」ものを作ろうとしてちゃんと「カッコイイ」ものを作るなんて、簡単に出来そうだけれど全然簡単じゃない事だ。

瑞々しい疾走感はあれどもそこには確かにオトナのロックバンドとしての余裕が共存し、自分達の持つ“青臭さ”“男臭さ”をいわゆる確信犯的に活用しているのがよくわかる。
九十年代に一世を風靡したバンドブームを思わせるメロコア、昭和のキャバレーで何処からか聞こえてきそうなジャズ歌謡、渋谷のカフェでDJが回していそうな肩から力の抜けたお洒落ロック。かつてインディーズ時代に彼等が憧れ何度も表現してきた世界観を、遂に今、彼等は本当にモノにしたのではないかとすら思う。

冒頭の怒涛のような義勝謹製ゴリゴリロックンロールゾーンの奇襲を乗り越えると、次はギター武正さんとドラムの八木氏による楽曲が存在感バキバキに待っている。煌めくように眩しいシンセと渦巻く輪廻へ導かんばかりに弾き倒されるテクニカルギターに圧倒される『nayuta』、そしてお酒をテーマにしたらしい(!)セクシーでノリノリなパーティチューン『テキーラキラー』。誰よりもバンドをよく知り、ボーカルの声をよく知っているオリジナルメンバーのふたりによる楽曲は、ボーカルふたりの新しい顔を引き出してくれる、破壊力満点の起爆剤。どんな楽曲のどんな役柄も次々演じ分けるふたりの表現力の高さは勿論、ここ数年でメキメキ増し増しな色気もこれでもか!と引っ張り出されている。特に『テキーラキラー』……八木氏、良い同人作家になりそう……。

そして勿論、リリースを重ねる程にパワーアップするツインボーカルの歌を底上げする、オリジナルメンバーのふたりの進化も凄まじく感じる。曲によって力強く、そして柔らかく、柔軟に印象を変えるドラム。そしてキャッチーさと哀愁を持ち合わせた切なくも楽しげなギタメロ。パワフルなのに泣ける。


クライマックスに差し掛かると、圧倒的に「強い」このアルバムの別の側面が見えてくる。それは、「優しさ」だ。そしてその「優しい」部分を大きく担っているのは、誰あろう“巨匠”=ギタボの寺中氏である。

ハードボイルド作家チャンドラーの作品に出てくる探偵、フィリップ・マーロウのとある有名な台詞を引用したい。

「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格はない」

このアルバムでの巨匠の楽曲——特にアルバムタイトルの由来にもなったらしい『Rainbow road』は、この台詞の後半の役割を果たしているように感じられた。列車が走っていくような心地よい疾走感に彩られたこの曲は、次のような歌詞で締めくくられている。

「いつか僕にも 描けるだろうか
君が憧れる 七色の放物線」

実はこのフレーズ、義勝さんの手による一曲目『ワルシャワ〜』のサビのフレーズと奇しくもリンクしている。

ワルシャワ〜』で「儚い今日を生き」ながら虹を追いかけていた彼等は、この曲で「追いかけられる方」である虹を、その手で描き出そうとしているのだ。まるで、挑戦者にその座を譲り渡すチャンピオンのように。そこには、強さに必要不可欠な、地に足のついた優しさがある。アツい。

そしてそんな、男前な「強さ」と「優しさ」をも全て包み込む、最後の一曲『FLOWER』。義勝さんはこの曲で、神々しい程に優しく、母性さえ感じる穏やかな世界を描き出している。
嘘でもいいから愛してほしい、と言った切実な想いを至極ポップに歌い続けてきた彼が描く「無償の愛」は、ただそれだけで尊い

「優しい世界」と言う言葉が印象的なこの曲。彼の愛が作り出す「優しい世界」にはきっと、鮮やかで美しい虹が描かれているのだろう。そして、そこにいる彼等は現在の彼等が目指している(多分)、「強くて優しい」オトナのロックバンドに華麗なる変身を遂げているに違いない。


オズの魔法使い』でドロシー達は虹の彼方にある魔法使いの国を目指した。

アツさ、セクシーさ、泣きメロ、楽しさ。ロックバンドの美しいところを全て詰め込んだようなこのアルバムは、現在のKEYTALKを乗っけて虹の彼方へ運び届ける、方舟の役割を果たしてくれるんじゃないか。

彼等の旅はまだ始まったばかり。花も嵐も乗り越えて、虹の彼方の新世界へ駆け抜けてゆく様を、いつまでもいつまでも見つめていたいと思った。




【2020年12月執筆】感想文:カツセマサヒコ『明け方の若者たち』:「エモい」を解釈する4つの断章

※この記事は2020年12月に店主イガラシのnoteにて公開された記事に加筆修正を加えたものとなっております。情報は記事執筆時点のものとなっておりますので、何卒ご了承ください。

 

■Attention

これは今年6月に刊行されたカツセマサヒコ氏による小説『明け方の若者たち』について、自意識を拗らせながらいわゆるアラサーまで生き長らえてしまった人間が気紛れに書いた長文です。僕は氏の大ファンで、刊行が決まった際に氏が運営している彼氏面でメッセージを送ってくださる公式LINEに長文メッセージを送り付け、たったひとことの返信に泣いてしまったぐらいなので、この長文を読んでくださった奇特なあなたにはなるべく氏の著書を読んでみたいと思ってもらいたいと思いながら書いていますが、どうしても物語の核心部分や肝になってくる部分に触れざるを得なかった点もあるので、いわゆるネタバレを避けたい方は本編をお読みになってからこちらの乱文に目を通してくださればと思います。それでは、よろしくどうぞ。

 



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■詞になるような甘い想い出

昔から本と同じぐらい音楽が好きだった。僕が子供の頃は丁度バンドブームの最中で、いまやすっかり大物になってしまったバンドが全盛期の人気を誇っていた。僕はテレビに齧り付くようにして音楽番組を観ていて、意味もわからずに難しい言葉の音楽を沢山覚えた。

最初に飛び込んでくるのはメロディやサウンドだけれど、最終的に刺さるのは詞が美しい曲だ。未だにCDを買えば必ず歌詞カードを読むし、サブスクを使っても歌詞サイトにアクセスしまくる。最初に話した通り、本を読むのが好きなせいかもしれないが、特に好きなのが物語を感じられる詞だ。イエモンの『JAM』や『バラ色の日々』は幼心に衝撃的だったし、大人になってから改めて聴いたキリンジの『エイリアンズ』や、ハイティーンになってから再会したPlastic Treeの『アローンアゲイン、ワンダフルワールド』は感動を通り越して琴線を蜂の巣にされた。

 

物語の始まりは、就職を控えた主人公が参加した飲み会の場面だ。内定者だけが集められ、“勝ち組飲み会”と称された不毛な宴の輪の中で、彼は「彼女」を見つける。ショートカットの似合う、ちょっとマニッシュだけれど華奢で儚げな女性。携帯を失くした「彼女」のために着信を鳴らしてあげた彼のもとに、飲み会を早々に退席してしまった「彼女」から、世界で一番美しくて世界で一番どうしようもない誘い文句がショートメッセージで届く。

 

「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」
 

ここまで呼んで僕はうっすらと気がついていたが、その次の場面、主人公が飲み会を抜け出して「彼女」に会いに行くその場面を読んで、僕はその気づきに確信を得た。ああ、この小説は“詞”だ。

明大前の駅近く、閑静な住宅街にある小さな公園。その空間のスケールに見合わない、大きなクジラの遊具の影に隠れた小さな滑り台の上に腰掛けた「彼女」。月明かりのもと浮かび上がるその細いシルエットが、「僕」に向かって何故か飲みかけのハイボールの缶を差し出す。自分は新しい缶を、小気味よい音を立てて開ける。ついさっき「この公園で元カノとキスしたな」なんて牽制した主人公に、「彼女」はこう切り返したばかりだ。「私、一度ここで、セックスしたことあるなぁ」

もう、“詞”じゃん。

これはもう個人差のあるものだから断言出来ないのだけれど、僕にとって詞や詩はロマンチックすぎてはいけないものだ。小説よりも言葉数に制限があるせいか、没入出来ずに目や耳が上滑りしてしまう。そこには程好い生活感が欲しくて、百年先も愛を誓われるよりも輝いたのは鏡でも太陽でもなくて君だと気づいたと歌われる方が断然ときめく。その鏡も王子様のおわす宮殿の金縁薔薇彫刻入りのやつじゃあ駄目で、電球の切れかけたワンルームの洗面所の、かろうじてシャワーヘッドが使えるシステムドレッサーのやつじゃないとロマンを感じない。そもそもが小説だって、たとえドラマや映画だって、いわゆるハーレクインみたいな選ばれし姫と王子しか踏み込めないようなサンクチュアリには反吐が出るタイプなのだ。ベタな月9なんて見れたもんじゃない。そういう奴なのだ。

「彼女」と主人公の想い出は常に、その点において、胸がいっぱいになる程に“詞”だった。

初めてのデートは下北沢の小劇場での観劇だった。ヴィレヴァンで待ち合わせて、あのジャングルのような店の中で、大のおとながふたりでかくれんぼの真似事をした。せっかくの夏の遠出、借りたレンタカーのキーを落として、行き場を失くしてちょっとした高級ホテルのスイートルームで一夜を過ごす羽目になってしまった。

「彼女」とした事を書き連ねただけなのに、僕みたいな逆張りオタクのサブカル野郎にはどうしたって刺さりまくる。この字面だけで逃れようもない程に、その辺の映画化話題作少女漫画なんかよりも、この世界に浸ってみたい、浸っていたいと思ってしまう。しかしカツセマサヒコというひとの綴る言葉は決して華美でも気障でもない。ごく何気ない言葉でその世界の解像度を爆裂に高め、現実のものとして僕達の目の前に再現してみせるのだ。

「相変わらず情報量が多い店内に目を慣らしながら進むと、ボサノヴァ風にアレンジされたスピッツの『ロビンソン』が小さなスピーカーから流れている。少し鼻にかかる歌声を響かせる女性ヴォーカルが、この店の雰囲気によく似合う。目線をおろすと、海外アニメのキャラクターみたいなキーホルダーがこちらを馬鹿にするように笑っていた。」
彼の手にかかればヴィレヴァンの店内の、全ての無機物が生きているかのように有機的に見えてくるあの“感じ”がこれ程までに的確に表現されてしまう。そして何よりその世界の中に息づく、「彼女」の存在が魅力的すぎた。

そう、何よりも「彼女」こそが、“詞”なのかもしれないとすら思う。

 

「彼女」は決していわゆる“女性らしい”ひとではない。大学を卒業後夢だったというアパレル関係の仕事に就いてひたむきに働く「彼女」はしっかり自分の世界を持っていて、少々理屈っぽく、デートに真っ黒な長いワンピースとキャップを身につけてやってきて、いつも飾り気のない使い込んだ黒いリュックを背負っている。少し歳上の彼女に主人公が敬語を使おうとすれば物凄い剣幕で怒り、お気に入りのコンビニやビールになかなかのこだわりを持っている。主人公がフジロックに行けない事を嘆いた時にはフェスは怖いし疲れるから嫌、好きなアーティストはワンマンで観ると言い放ち、めちゃくちゃな理屈で煮え切らない主人公を論破する。

「行ったことない場所の楽しさなんてさ、わかりっこなくない? じゃあ、わかった。こうしよう。あれは全部、ウソです! 例年の楽しそうなツイートは全部サクラが仕込んでいて、今年はフランツも来日しないし、ウルフルズは復活延期。OK GOもストレイテナーも出ないし、会場は大型の竜巻と台風に襲われて、空からカエルが降ってくる。フジロックほど最低な場所はないし、私たちが過ごす場所ほど、最高なところはないみたいだよ。すごくない?」
「彼女」の言葉はいつも甘くないし、時に気難しそうですらある。だけれど僕の目には「彼女」のその気難しさこそが魅力的に見えたし、愛おしくすらあった。ここまで書くとまるでいわゆる“強いオンナ”的なイメージを「彼女」に抱かせてしまうかもしれないが、前述したように彼女は真っ赤なヒールも履かないし、ルージュも塗らないし、エルメスのバッグも持ってなさそうだ。物語冒頭の“勝ち組飲み会”のシーンから一貫して、「彼女」はどちらかと言うと慎ましやかな雰囲気を持つ女性として描かれている。恋愛小説によく出てくる、“イイ女”のステレオタイプに「彼女」は当てはまらない。だからこそ僕は「彼女」を魅力的に思うし、主人公と一緒になって、安心して「彼女」に恋が出来た。

カツセマサヒコというひとはインターネットで「バズって」今があるひとだ。Twitterで短い恋愛小説のようなエモいツイートを投稿してそれが評価され、「タイムラインの王子様」なんて眩しい通り名まである作家である。優男もあくまで“オトコ”であり、そう考えるととても“男女”のお話に縁のあるひとのように思えるが、僕の目にはそうとは言いきれないように感じられる。

長編小説という舞台にその身を置いたカツセマサヒコというひとは、「男女」の物語ではなく、「人と人」の恋のお話を描いた。「彼女」のその、一見慎ましやかなのに芯が強く、自分自身の理屈を時に身勝手な程にはっきりと伝えてくるある種野性的なまでの凶暴性、それを覆い隠して和らげる知性とサブカル趣味、そこには年頃の女性のコケティッシュさだけでなく、少年のような瑞々しさも感じられるようで、「彼女」のそこが僕はとても好きだった。性別とかもうどうでもいい、「彼女」のような、気難しくて面白くて可愛らしくて時々妙に艶っぽい、ヤベーやつが自分の隣に確かに息づいている、その生命の煌めきにエロティシズムすら感じるのだ。

その、生命力に裏付けられたエロティシズムは多分だけれど、彼女がいわゆる“イイ女”のステレオタイプに収まっていないが故のものだ。Twitterは短い文章の中でどれだけわかりやすく命題に言及するかが求められる舞台だ。オタク構文にマクドのJK、おじさんLINE仕草、異世界転生……ウケるにはある種のステレオタイプに乗っからないといけない。そんな愉快な詩情のディストピアを主なフィールドとして闘い続けてきたカツセマサヒコというひとは、考えうる全てのステレオタイプをかなぐり捨て――ある種、いわゆる“サブカル野郎”的なステレオタイプは感じるけれど――それは「ミーハー」を公言する氏のチャームポイントだし、僕も間違いなく逃れようもないサブカルクソ野郎なので目を瞑らせて頂く――、ステレオタイプなイメージでコントロール出来ない魅力的な、「人と人」の恋物語を描いたのだ、と僕は思う。

その、平面的なステレオタイプからはみ出しまくった甘くない甘い想い出は、僕にとってどうしようもなく理想的な“詞”だった。ずっとその“詞”に耳を傾けていたいと思った。

その心地好い甘さが、断ち切れない程に中毒性のあるダウナーな麻薬であるとも知らずに。

 

■その「甘さ」は麻薬

本当にカツセマサヒコというひとはひどいと思う。これだけ「尊敬してます先生アピール」しといてお前こそひでえ読者だなあと思われるかもしれないが、ひどいのだから仕方ないのだ。

本気で、30年近く生きてやっとひねくれ者の僕にとって理想的な恋愛小説に出会えたと思った。それが中盤、鮮やかなまでに裏切られる。

いわゆる最近流行りの小説によくある、エモいどんでん返しとは一線を画す。そんなもんは所詮読者を楽しませるためのギミックに過ぎなくて、この物語の中盤の“裏切り”は、現実の縮図なんじゃないかとすら思うのだ。

これはこの小説の一番の見どころと言うか、これこそがこの物語のアイデンティティなのだろうと読了して数ヶ月が経過した今では思うので詳細に言及するのは避けるが、簡単に説明すると主人公の恋は物語の中盤で終わる。あまりにも呆気なく、オセロの石がパタパタとひっくり返るかのように、終わる。その終わり方がどうしようもなく残酷なのだ。

オセロの石がパタパタとひっくり返った結果、「彼女」と過ごした日々のあの甘さは、全て痛みに変わる。それはまるで麻薬の禁断症状のように、ズキズキと疼いてなかなか消えてくれない。物語の中で生じる出来事としては、もしかしたらありきたりな事なのかもしれないとも思うけれど、その「ありきたりさ」がリアリティになる。

多分僕なんかの文章を読んでくださっている奇特なピーターパンの諸兄諸姉は嫌という程よくおわかりかと思うが、現実はそうドラマチックじゃない。この世界に溢れるラブストーリーは片割れが死にすぎだしその死を乗り越えて生きていこうとしすぎだし、なんだかんだで恋人の大病はあっさり治りすぎだし、ふたりのオトコやふたりのオンナの間で揺れすぎだしどちらかすんなり選びすぎだし、選ばれなかった方も聞き分けが良すぎる。現実にはそんな、「都合の良い都合の悪さ」はない。現実に僕達を苦しめるのは「ありきたり」な「よくある事」ばかりだし、カツセマサヒコというひとはその描き方が、残酷なまでに上手だ。事象としては「ありきたり」な話なのに、こんなにも精神を抉られるのはなんたってあの展開力、そしてモノローグの破壊力があってこそだ。

詞のように甘美な日々はその後の現実のしんどさをより際立たせるだけでしかなくて、その日々が理想的であればある程、“詞”であればある程切らした後の禁断症状は大きい。それは麻薬のように重く尾を引き、ちょっと冷静になれば自分の事ではない、全く知らない他人の物語だという事は痛いぐらいにわかっているはずなのに、そこにあるはずもない“現実”を突きつけられて思わずページを捲る手が止まりそうになる。やめてくれ、もうこれ以上は。これは僕の事なんかじゃない、「僕」の物語のはずなのに。

 

■「失恋した主人公を支える友達」とホモソーシャル

ここで少しだけ脱線する。このまま「彼女」の話をし続けていてもどんどんしんどくなるだけなので、ちょっとだけ愉快な話をさせて頂こう。

『明け方の若者たち』には重要な登場人物が、「彼女」と「僕」以外にもうひとり出てくる。「尚人」と呼ばれる彼は「僕」の友人で、いわゆる悪友みたいな存在だ。

尚人はとてもオトコマエだ。控えめでやや優柔不断な「僕」とは違い、明朗快活で要領が良くいわゆる“意識高い系”っぽくもある。でも決して綺麗事ばかり口にして社会に順応していくようなオトナぶったオトコではなく、いわば夢物語を具現化するにはどうしたらいいか、やたらリアリティを持って傾向と対策を練れる頭の良さがあるオトコだ。友達の中にひとりはいるよね、「京都行きたいね〜」「台湾行きたいね〜」とかフィーリングで喋ってただけなのに翌日徐にやたら具体的な旅のプラン提案してくるヤツ。多分尚人はそのタイプ。あと言わずもがなモテる。

物語の前半を占める「彼女」とのシーンは大好きな場面ばかりなのだけれど、後半にも大好きなシーンが沢山あって、その大半が尚人との場面だ。中でも好きなのが、彼女と別れて憔悴しきり、文字通り死にかけていた「僕」のもとを尚人が訪ね、世話を焼いてやるシーンだ。彼は「僕」の家の台所を勝手に漁って紅茶を入れてやるのだが、その中には大量の砂糖が入っていて「僕」は度肝を抜かす。

「人間の体は、あっためて甘いもん入れたら、少しは落ち着くようにできてんだよ」「あとな、失恋の傷は、異性で癒そうとするな、時間で癒せ」
そう言い放った尚人はやっぱりオトコマエで、うっかり「彼女」と同じぐらいときめいてしまう。

 

でもここでちょっと考えたいのが、よくあるラブストーリーの「失恋に喘ぐ主人公を励ます友人」という構図。これって性別を問わず、時にホモソーシャル的になっちまうんだよな。

多くの場合で「ホモソーシャル」って男性同士の“女性を排除した”関係性、いわゆるガチムチ! スポ根! 女人禁制!!! みてえなクソ男尊女卑ワールドを指す事が多いが、広義では女性だけの男子禁制的な(時に男性嫌悪的な)関係性も指すらしいので、ここではいわゆる男女には限りません。ともかく、この世の大半を占める「オトコ」と「オンナ」という性別、その片方を嫌悪し、排除するような空気を持ってしまいかねないというお話。

なあ、お前を振るなんてひでえオンナだよなあ、そんなオンナとっとと忘れようぜ、なんなら恋愛なんて暫くいいじゃねえか、オンナなんて信用出来ねえよ、ヒステリックでジコチューじゃねえか。なんか、そういう感じの空気ね。恋人という異性をオカズというか、当て馬として同性同士の繋がりを強固にするホモソーシャル・オナニーのお時間。女性同士のお話でもきっとあるはず、オトコなんてみんな死ね!!! みたいな。

 

僕は正直この社会に当たり前にまことしやかに存在し続ける男女異性愛至上主義的な思想には一度木っ端微塵に砕けてほしいと思っているのだが、だからと言ってそういう、同性同士の繋がりを強くするために他の性別を持つ存在を当て馬扱いするような思考回路はそれはそれでクソみてえだなあと思っている。そして、カツセマサヒコというひとはそんなクソみてえな空気を、尚人と「僕」の関係性からものの見事に排除しているのだ。何故なら、尚人は「僕」と「彼女」とまるで竹馬の友のように、ニコイチならぬサンコイチのように行動を共にし、楽しげに笑い合った仲だからだ。

尚人と「僕」と「彼女」は毎晩のように高円寺の酒場で夢を語らい、どうでもいい詭弁に花を咲かせ、夜空を見上げて笑い合った。尚人は彼女の人間的な魅力を、“友人として”よく知っているのだ。

これはやっぱり尚人が快活な好青年でモテる事にも所以があるのかもしれないが、彼には多分、性別にこだわらず人間を見る事が出来るフラットな目がある。3人の間には決して“カップル”と“カレシの友人”というような壁はなく、ただの3人の若者として、夢と希望に瞳をきらきら輝かせながらも目の前に迫る現実と取っ組み合いながら生きる人間同士として、まるできょうだいのように豊かで、眩しい関係性を築いているように見えた。だからこそ、「僕」を励まそうとする尚人の言葉は重く、温かい。

その後、絵に描いたような学生時代のホモソ先輩が登場して「僕」は「女を忘れるには女だ!」と風俗に連れていかれてしまうのだけれど、その場に居合わせパイセンと一緒になって「僕」を唆す尚人は終始ふざけた調子だ。今ならわかる。多分あれ、本心じゃなかったんじゃねえかな。

先にも述べたようにカツセマサヒコというひとは「タイムラインの王子様」なんてキャッチフレーズをつけられて、彼に対していかにも男女の恋愛! ロマンチック至上主義!!! みたいなイメージを抱いているツイッタラーも一定数はいるんじゃないかと思う。でも決してこのひとは“君と僕の物語”ばかりのひとではない――いや、広い意味で考えればこれも“君と僕の物語”なのかもしれないが。

著者は女性誌の『ar』の次月号の内容を紹介する連載などもしているのだけれど(そう、あの“おフェロ”で有名な『ar』である!)、定期的にイケメン特集が組まれるあの雑誌の紹介ではもう完全に、ボーイッシュでちょっとミーハーな女子大生なのだ。言っちゃえば表紙を飾る吉岡里帆さんと、中ページのカラーグラビアを彩る成田凌さんへの目線がほぼ一緒。これはいちファンの、カツセマサヒコという作家のシンパの主観だと思って聞いてほしいのだけれど、やっぱりこのひとは「オトコ」や「オンナ」ではなく、「人間」の美しさやエロスへの賛辞を書かせたら右に出る者は居ないひとだと思う。そんな著者だからこそ、あんな甘い恋の想い出とゆるやかな男同士の友情を、ひとつの物語の中にあれ程までにフラットに描き込めたんじゃないかな。

もしかしたら尚人も根っこは、風俗パイセンと一緒で、知らんオンナ抱いて失恋を忘れられるタイプのオトコなのかもしれない。だとしても彼は間違いなく「彼女」を“友達のカノジョ”で“オンナ”だとは見ていなかったと思う。彼等は人間同士として理解し合っていただろうし、「僕」を風俗に行かせるためにカンパまでした尚人を「僕」がちょっとだけ「無神経なヤツだな」と思ったとしても、彼等の友情はきっと続く。そういうもんなんじゃないかと思う、友情ってヤツは。すべてわかり合いたいと思ってしまいがちな恋心と違って、もっとゆるくて流動的で、強固なものだ。その対比もなんだか素敵だった。どちらかが崇高で、どちらかが不必要だなんて事はなく、全ての関係性は等しく尊い

 

■「エモい」の正体

昔からいわゆる「しんどい」音楽が好きだった。子供の頃に全く意識せずに「素敵だなあ」と思っていたイエモンの『バラ色の日々』や『JAM』の歌詞は大人になってから改めて読み込んでみたらはちゃめちゃにえぐかったし、じゃあメロディに惹かれていたのかと考えたらコード進行なんかも完全に泣かせにかかってた。歳を重ねれば重ねる程に感情の蓄積も増えるし、涙腺も弱くなるので、「やっぱりミスチルは『シフクノオト』が一番好きだなあ」なんて思うようになるけれど、時々猛烈に『深海』の重たさが懐かしくなる。友達と夜遅く、終電ギリギリまで遊んだ夜には途中下車してひとりになりたくなってしまう。よく知らない都会の路地裏を歩きながら、周りに誰もいなかったならVapeなど吹かしちゃったりして、月を見上げてわざわざ自分から淋しくなりに行くのだ。

僕はラブストーリーが苦手なので、多分この小説をカツセマサヒコが書いていなければ、本屋の平積みで出会った行きずりの本ならば読まなかったかもしれない。だけれど、多分これを書いたのがカツセマサヒコでなくても、僕はこの小説を読んだならきっと泣いていただろう。

 

当然の話だが、人間は歳を重ねる毎に経験した感情の種類が増える。いわゆる人生経験ってヤツによって、それまで抱いた事のなかった感情も抱くようになるからだ。感情は年々蓄積され、その種類や量のレンジは拡張される。

元々は英単語「emotional」の略だし、音楽用語である側面が強かったにも関わらず、すっかり若者の流行り言葉扱いになってしまった「エモい」という言葉。でもこれって、ある程度歳を重ねたひとこそ実は感じやすくなるものなんじゃないかとも思う。何故なら「エモい」という感覚は決してSNSなんかで簡単にシェア出来るものではなく、どこまでも内省的で、そのひとそれぞれがそのかけがえのない人生の中で経験し、内側に蓄積されてきた感情をふとしたきっかけで引きずり出された時に感じるものだからだ。

カツセマサヒコというひとは、ここまで「エモい」が市民権を得る前から「エモい」の名手だった。それこそ、彼が「タイムラインの王子様」になったのも、きっと多くのひとびとの「エモい」を引きずり出したからだ。何故か、と考えた。彼の書く文章は、どこまでも主語が小さく、そして良い意味で視点人物の輪郭が曖昧なのだ。

出典元を今大慌てで探したのだが確証の持てるものに出会えなかったという物書きとしての駄目っぷりをまず最初に晒してから続けるが、氏はかつて何かの記事かなにかで自身の事を「ミーハーなのが売りだと思っている」と語っていた。おそらくだけれど、氏の言う「ミーハーさ」というのは流行りものに軽率に飛びついて飽きるというような意味ではなく、自分の周囲のひとたちが良いと言っているもの、世間一般的にシンパが多いもの、いわゆる名作だとか、名曲だとかを素直に愛する(そして時に素直に飽きる)事が出来るということなんじゃなかろうか。オタクではなくサブカル。絵に描いたようなサブカル人(びと)だ。だから僕達は、氏の描く“絵に描いたようなサブカル人(びと)”な視点人物の向こうに、無意識のうちに自分自身を重ねてしまう。その、輪郭は曖昧なくせに、いかにも何者かであるかのように立ち上がる良い意味で無個性な個性は、捻くれたサブカル野郎な我々にとって自分を重ね合わせやすいのだ。そして、よくあるインターネット文章のように軽率に容易に「僕達」だとか「人間は」だとか、「オトコは」だとか「オンナは」だとかでかい主語で喋らない。氏の描く物語はあくまでも「僕」や「私」の胸のうちに蓄積されたそれぞれの感傷にそっと寄り添い、優しい指先で掬い上げるようにして、「エモい」を引きずり出してくれる。

 

「僕」は結局、幸せ者だったのだと思う。あのどうしようもない、10代の頃程将来の事考えないでいられるわけじゃないけど、決して安定した未来が見えているわけでもない、どんなに手堅い仕事に就いたとしてもどうしようもなくモラトリアムな20代の年頃に、あんなにもぐちゃぐちゃになれる程の恋が出来たのだから。もうちょっと大人になってしまったらそうそうぐちゃぐちゃになんてなれやしないだろうし、10代の夢見がちで独り善がりな恋とも違うだろうし。僕にはそんな素敵な経験は生憎今のところないけれど、あの物語を読んでいる間だけは確かに、「彼女」と、そして尚人と過ごした日々は「僕」のものだった。

だから彼等には幸せになってもらわないと困る。幸せの雛形なんてないのだからどんなかたちをしているのかすら僕にはわからないけれど、もしかしたら実感がないだけで今既に幸せなのかもしれないけれど、そもそも恒久的な幸せなんてこの世に存在しないのかもしれないけれど。あの日々を“共に過ごした”彼等が幸せになってくれないと、僕も幸せになれない気がする。何をするにもままならない、いつまでも夢見るピーターパンではいられない、でも夢見る事をやめる事は出来ない、こんな残酷な現実ってヤツを目の前にして、これからの人生生きていけない気さえしてくる。

多分僕はこれからもあの物語を時々思い出しては、彼等の幸せを祈りながら生きていくのだろう。そして、赤の他人なはずなのにまるで古い友人のように愛おしく思えてしまった彼等の存在を、自分だけのものにせず、世に送り出してくれたカツセマサヒコというひとの幸せも。

ご多忙かと思いますが、どうかお身体に気をつけて。これからも先生にしか描けない「エモ」、楽しみにしています。