偏好文庫-「好き」を解釈し続けるメディア-

いろんな“好き”を愛するための(ひとり)メディア、偏好文庫です

感想文:映画『キャラクター』:創作者の暴力性と死ぬほど可愛いオム・ファタル

■前振り

話題の漫画、『ルックバック』を読んだ。
僕が読んだ時には既に修正後の状態になっていたので、件の各所で盛り上がっている修正前の状態は生憎確認出来なかったのだけれど、それでも濃密で、ペーソスがあって、メッセージも濃くて、切なさと諦めにも似た希望を感じられる素敵な作品だったので、僕としては決して「修正したら元々の良さが失われる!」だなんていう言説を支持する気はしないな、と思っている。もしかしたら修正前の状態の方がもっと素晴らしい仕上がりだったのかもしれないけれど、修正後も傑作である事に変わりはないんだから、これ以上傷つくひとが増える前に修正を加えたのは英断と言って差し支えないんじゃないですかね。

それよりも、別の部分が気になった。
これは、僕が尊敬するとある作家さんもこの作品に対する感想として仰っていた事なのだけれど、『ルックバック』は皆さんもご存知の通り(?)とある実際に起こった事件を題材にした作品だ、とされている。その割には、何のためらいもなく前置きもなく、“そのシーン”まで一直線に物語が進んでしまうのだ。
そもそも修正騒動だって、実在の事件を題材としているからこそ生じたものだ。
実際に起こった事件を想起させる作品なのであれば、物語を始める前に注意書きを入れるなど、ワンクッション入れるべきなのでは、と思う。作者に言うのはお門違いかもしれない。編集者の仕事なのかもしれないが、いずれにせよ、だ。
素敵な作品だからこそそう思う。ただでさえ、あれだけ“大きくて衝撃的な”事件だったのだから、直接的には無関係の人間でも心に傷を負ってしまっていて、その事件関連の話を耳にするだけでもつらくなってしまうというひとはきっと多いはずだ。かく言う僕も、今でこそ少しは癒えたが、当時はテレビでニュースを観るのさえ怖かった。
津波の映像がテレビで流される前にだって、画面が真っ暗になって白抜きでアナウンスが挿入される。もう10年も経っている出来事だって未だにそうなのだ。
まだ記憶に新しいような実在の事件を創作の題材にするだなんて、相当取り扱いに神経を使わないと、そこらじゅうが血の海になってしまう。

■映画『キャラクター』がめちゃめちゃ面白かった

突然話題が変わりますが、そういう事です。いや、めちゃめちゃ面白かった。何様という感じだが、久しぶりに心底好きすぎる邦画に出会えたという気分である。おいらハマりこみすぎて劇中資料とか衣装の展示会まで行ったもん。


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映画自体はもう公開が終わりかけている状態なのだけれど――題材が題材だから、ちょっとニッチ過ぎてあまり公開期間は長くなかったみたい――追々円盤が出たら少しでも多くのひとに僕と一緒に狂ってほしいので、ここにクソ長感想を綴っておこうと思う。いちおう物語の核心には触れないようにしておくつもりなので読んだ後でも本編を楽しんで頂けるだろうとは思うが、結構ネタバレしているのでそこだけご注意だ。

あらすじとしては、

主人公であるお人好しで凡庸な漫画家志望の青年・山城くんが渾身の力作を漫画誌の編集者に手酷くダメ出しされ、アシスタントとして師事している漫画家の先生(ちょっとパワハラ気味)のもとも辞めてそろそろ夢を諦めまともな仕事に就くか……と失意のどん底のなか、最後の仕事としてパワハラ先生の指示でスケッチに出かけた住宅街のとある立派なお家の中でとんでもねえ殺人現場に遭遇!
そこで彼は世にも不気味で怖気がする程美しい殺人鬼・両角と出会い、あまりの蠱惑的さにうっかり彼をモデルにした殺人鬼が出てくる漫画を執筆。それが大当たりして大ブレイク漫画家として一躍脚光を浴びるが、そんなある日彼のもとにあの日の殺人鬼が再び現れてさあ大変!
殺人鬼「ねぇ先生。ぼく、先生の作品、リアルに再現しておきました(ニッコリ)」
その後、山城の描いた漫画にそっくりな殺人事件が次々に発生するようになって……!?

というような感じのお話である。
ご想像の通り結構エグいサイコサスペンスだ。死体は血まみれだし山城くんが遭遇した殺人現場は映画冒頭にも関わらず血の海だし、いちおうPG12なのだけれど多分R15ぐらいにはした方が良いんじゃねえかと思うぐらいにはグロい。あらすじもこんなんだからバリバリのアングラ映画みたいに思われるかもだが、実はこの映画はかなりのスター映画でもある。

知ってる人も多分少なくないと思うけれど、主演は菅田将暉だし小栗旬高畑充希ちゃん、中村獅童先生と最近の日本映画界を代表するメンツが勢ぞろい。そこに加えて、我々の界隈でかなり話題になったのはなんたって深瀬くんだ。そう、みんな大好き(?)SEKAI NO OWARIのボーカルの深瀬くん。彼が初めて演技に本格的に挑戦する、というビッグニュースは僕のTLを猛烈な勢いで駆け抜けていった。
だって、あの深瀬くんが殺人鬼の役だ。オタクの妄想でもそんなにぶっ飛んでねえぜ。しかしこのぶったまげたキャスティングも決してただの話題作りではなかった……というような話はまぁ、もう少し後で詳しく話そうと思う。

スタイリッシュな映像に、非の打ち所がないぐらい滑らかな展開で且つ劇的な脚本。数秒後に何が起こるかわからないジェットコースターみたいな勢いと、長編漫画を何十巻も一気読みしたみたいな疲労感を覚える緻密さが隣り合っていてとにかく面白かった。音楽もスタイリッシュでカッコイイと思ったら、藤井風くんの曲もプロデュースしているようなひとが担当してた。お洒落。

一方で、この映画はやっぱりアングラサブカルサイコサスペンスでもある。やたら暗いのに所々彩度が高く、じっとりとした湿り気を感じる映像の質感もさることながら、主人公格にある山城と両角というふたりの男の間に漂う空気もどことなく淫靡で、スタームービーに抱いちゃイケナイ類のドキドキ感を否めない。しかも作中に登場する主人公の描く漫画の作画は『亜獣譚』や『たびしカワラん!!』などの作者の江野スミ先生、主人公の師匠のパワハラ先生が描いている漫画の作画はあの古屋兎丸先生が担当している。なんだかお耽美。実はこの映画は原作がなくオリジナル脚本なのだが、原作漫画がもしもあるならその作者はヴァニラ画廊で原画展やった事あるタイプだと思う。

そんな、久しぶりに出会えた大好きな映画『キャラクター』。大好きだからこそ、僕にはどうしても言いたい事がある。
「言いたい事がある」と言っても、別に制作サイドにイチャモンをつけたいわけではない。僕が言いたいことがあるのは、主人公――山城圭吾に対してだ。

■おい、山城。“創作者の暴力性”を自覚しろ

山城は、“やりたい事”と“出来る事”の間に生じる乖離=“アイデンティティの乖離”に苦しむ男だ。そもそも彼が漫画家として芽が出ないのは、やりたい事=ホラーやサスペンスの作品を描きたいのに、お人好しが過ぎて魅力的な悪役を描けないからだとされている。個人的には人が好いくせにホラーやサスペンスを嗜好しており、しかも江野スミの絵柄で超絶緻密な漫画を描いている時点で彼の事を単なる“お人好し”とは思えないのだが……現代において“お人好し”と“凡庸”は紙一重なので、まあそういう事なんだろう。
創作をするひとにとって、作りたい作品の傾向はイコール自分のアイデンティティとも言える。そのためにパワハラ気味な師匠にも師事しているというのに、彼は綺麗な絵は描けても自分の理想とする作品で食べていく事は叶わない。彼の理想とするアイデンティティと彼を取り巻く人物達の中にある彼のアイデンティティの中には決定的な乖離があって、これは彼にとっては致命的だ。

そんなこんなで、彼は失意の底でたまたま遭遇してしまった殺人事件を、ほぼそのまま漫画の題材にしてしまうのであった。そしてこれは、ひとりの漫画オタクの刑事(オトコマエ、元暴走族上がり、小栗旬)によって「あれ? この漫画、あの事件にそっくりじゃね?」と発見されてしまう。

僕は言いたい。刑事にわかるぐらい明確にそのまま漫画に起こしちゃあかんやろ、と。

僕は個人的に小説を書いている。ここで引用する程でもない馬鹿馬鹿しい小品だがそれなりにガチの本気で書いている。それにいちおうプロのライターなのでお金をもらって文章を書く事も多いのだが、仕事やそれ以外で文章を書いていると、漫画や文章に限らず映像作品や芸術作品など、何かを作る(創る)ひとはプロであれアマチュアであれ、ある種の暴力性を持っていると感じることが多いのだ。
それは、その作品を観たり読んだりしてくれるひとから作品に触れている間だけ時間を奪う力であったり、そのひとの感情を多かれ少なかれ左右する力であったり、特に漫画や小説の場合はその作品に登場する人物の生殺与奪の権利を握る事が出来る権利だったりする。場合によっては、その作品を目にするひとの人生すら左右してしまう可能性だってあるのだ。
だから僕は山城に言いたい。刑事にもバレるような演出にしてしまうだなんて、現実の事件を取り扱うにはあまりに短絡的だろ!!! と。

さっき『ルックバック』の話を少ししたが、これもそういう事なのだ。「これは実在の事件を題材にしています」と、ワンクッション置いてほしかったなと僕が思ったのは、とても素敵な作品なのに、その“創作者の暴力性”を意識していないと感じてしまったからだ。修正騒動が生じたのだって結局そのせいなんじゃないか?

山城のケースも同じだ。もしも刑事や両角でなく、最初に殺された4人家族の遺族がたまたま偶然彼の作品を見つけでもしたらどうしたのだろうか。それはそれで別の悲劇が生じる可能性だってあるだろう。せめて3人家族にするとか、そもそも一般家庭という事件の舞台を変えるとか、現場で出会った例の殺人鬼(両角)のキャラデザだけを利用するとか、なんか他にやり方あったんじゃないのか。漫画家志望の想像力があれば、そっくりそのまま参考にしなくたってその時の自分の恐怖や感情を作品に投影出来るはずなのに。それって、漫画家としての怠慢じゃないのか?

でも別に、僕も山城先生が嫌いなわけじゃ決してない。寧ろ親近感すら抱いている。僕ももうアラサーだってのに売れないライターで、出来る事とやりたい事の間に生じるアイデンティティの乖離のしんどさは痛いほどに理解出来るし。やっぱり自分には才能がないのか、誰にも求められないという事は漫画家としての己のアイデンティティを失うという事だ、それはとてもとても苦しい。
でも、いや、だからこそ、“実在の事件”という他人のアイデアを、他人である刑事にバレてしまうような形で参考にしてしまう方が(しかもあろうことかそれでブレイクしてしまうだなんて)、余程プライドが傷つくんじゃないか。
彼は漫画を描く理由として、「漫画の中の世界ではヒーローが勝って悪人が滅びる。間違ったことは間違っているとはっきり言えるじゃないですか」というような事を言っていた(※意訳で申し訳ない)。人の好い彼はきっと、「間違ったことは間違っていると」はっきり言えない人生だったんだろう。彼の漫画にはしっかりとした志があるのだ。でも、だったらもっと慎重にやってくれ、と思う。

ただ、一方で山城が件の殺人現場で遭遇した美しい殺人鬼――両角(と名乗る男)を自作のキャラクターのモデルにした理由はとてもよくわかる。何故なら彼はとても魅力的だからだ。ただ顔かたちが美しいだとか、悪役として不気味だとか、そういうものではない。多分だけれど――両角との出会いは、山城にとってある種の一目惚れに近いんじゃないかと思う。だから山城は取り調べの刑事にも、現場で彼に出会った事を頑なに言わなかったのだ。取り調べから解放されて家に帰ってから、一緒に暮らしている最愛の彼女とすらあまり口を利きたがらなかったのもそのせいだ。東京事変の『修羅場』の歌詞に「何方に会えば記憶を奪取まれよう/喉を使えば貴方が零れ出で溢れよう」というフレーズがあるが、この時の山城の気持ちはこれだったんじゃないか?

脳味噌いっぱいに詰まった両角と殺人現場の記憶を取りこぼさないようにするかのような虚ろな瞳のまま、彼は作業部屋に籠り、取り憑かれたような勢いで完成させる。彼の運命を大きく変える事になる、件の漫画を。

■山城を魅了した死ぬほど可愛い殺人犯、両角(とそれを完璧に演じあげた深瀬くん)について

アイデンティティの乖離に悩む山城に対して、彼を苦しめる不気味な殺人鬼――両角は、アイデンティティが“そもそもない”人物だ。

アイデンティティがそもそもない”、そんな人間は実在し得るのかという問いには、「決定的なネタバレになるので多くは語れないが、このシナリオなら充分あり得る」としか答えられない。それぐらい彼の生い立ち、アイデンティティを失うに至る理由は個人的にとても印象的で、画期的だった。少なくとも僕は、彼のような理由で人を殺すフィクションの殺人鬼は初めて目にした。それぐらいにはこの物語の魅力の根源を成しているし、両角という人物自身の魅力の根源でもあると言えるだろう。彼の人格が歪んでしまった理由はとても理屈が通っており、不思議なリアリティがあるように思える。とりあえずサラッと言えるとこだけ言うとカルト村とか好きなひとにはめちゃ刺さると思います。

つまり、両角はその“アイデンティティのなさ”が、そのまま彼が殺人を犯す理由に直結しているのだ。

サイコパスや連続殺人鬼というと刃物を舌で舐めたり常にニヒルな笑みを浮かべていたり主人公に向かって高笑いして見せたりするようなエキセントリックなキャラクターをイメージするひとが多いかと思うのだけれど、それは多くのひとが想像する“フィクションの殺人鬼”がいわゆる快楽殺人犯や、名声や自己承認欲求の充足など何かしらの見返りを求めて殺人を犯す犯罪者だからだろう。対して両角は殺人に快楽など見出していなければ、形として目に見えるような報酬も求めていない。彼は、殺人によって己の存在を他人に“認知される事”に悦びを見出しているのだ。
アイデンティティを持たない彼をあの殺人現場で目撃した山城が彼をモデルにしてキャラクターを作った事により、彼は生まれて初めて、アイデンティティを手に入れた事になる。山城の描く漫画に登場する殺人鬼、「ダガー」としてのアイデンティティを、だ。だから彼は“彼自身”である殺人鬼の行動をなぞったり、先回りして物語を紡ぐような行動へ出てしまうのだ。生まれてから今まで、手にした事がなかったアイデンティティを失わないために。彼の凶行は異常ではあるが、その理由は実に理屈が通っており、哀しい程に切実だ。

また、両角にはアイデンティティと同じく、いわゆる倫理観や道徳観のようなものも欠落しているように思える。そもそも彼がアイデンティティを奪われたきっかけとなった出来事によって、彼は倫理観や道徳観を育まれる情操教育の場も失ってしまったのかもしれない。彼が山城と出会うきっかけになった最初の殺人はあくまでも彼自身のみの意思で行われた凶行なわけだが、そこにあったのは、彼が“アイデンティティを奪われたきっかけ”に深く関わっている「4人家族」という存在への恨み……という程激しい感情ではなかったんじゃないかと僕は思っている。
両角の殺人衝動の根源は、怒りや恨みのようなありきたりな殺人犯のそれではない。寂しさや悲しみのような、もっと無邪気で根源的なものだ。そこに加えて、元々油絵を描いていた彼の美意識や生まれ持った狂気が重なったことで、あの凶悪な殺人現場が完成したのかもしれない。
そもそも両角には常人の倫理観や道徳観がないのだから、人間の命の重さをよくわかっていないのだろう。子供が罪のない昆虫の手足を残酷に引きちぎったり、羽根をむしり取ったりするように、彼は人を殺すんじゃないだろうか。

そう、そこだ。そこにこそ山城をも魅了した彼の魅力と不気味さがある。
両角は子供のように無邪気だ。しかしその肉体は30代の妙齢の美しい大人の男性である。彼という存在はどこまでもアンバランスで、グラグラと揺れる土台の上にギリギリの状態で積み上げられた石のようなものだ。そんなアンバランスさに、魅了されてしまったんじゃないですかね山城先生。違います?

両角は訳あって他人の戸籍を使って生活している。だから戸籍上では28歳なのだが、劇中に登場するとある新聞記事の日付から察するに彼の実年齢は30代半ばぐらいなんじゃないかとも言われている。因みにだが、彼を演じた件の深瀬くんも当時34歳だったらしい。信じられん。

両角は美少年のような幼く美しい相貌に常に静かな笑みを浮かべ、他人に警戒させない柔らかな雰囲気を纏い、美しく透き通った天使のような声で喋る。柔らかそうな髪はピンク色に染められ、細く小柄な体躯は緑色のジャージ姿。意外と礼儀正しいし普通にしている分には単なる不思議ちゃんだが“不思議ちゃん”とお呼びするにはお兄さんすぎるし、時々会話が絶妙に噛み合わないし、目は虚ろ。確かに端的にも不気味っちゃあ不気味なのだが、しかしその不気味さはフィクションによく登場する殺人鬼やサイコパス、犯罪者のステレオタイプな“不気味さ”とは一線を画していて、浮世離れしているのに隣に住んでいそうな、絶妙なリアリティがある。それがまた更に不気味さを加速させている。

そもそも両角という人物のキャラクターデザインはなかなか決まらなかったそうで、構想の段階では彼は輪郭のない幻影のような存在だった、らしい。元々セカオワのファンだったプロデューサーが深瀬くんを抜擢したことにより、あの絶妙なキャラクターデザインが完成したのだという。深瀬くんの髪色が当時たまたまピンクだったからピンク色の髪になったし、深瀬くん自身が趣味の油絵を描く時にお気に入りの緑のジャージを着ていて、絵の具のついた手をそのジャージで拭いてしまう、というエピソードからあの衣裳も決まったわけで、つまり、決して当て書きではないにも関わらず、両角のあの姿は深瀬くんが演じない限りありえなかった。
アイデンティティがない”という危うい土台の上に成り立っていた両角という人格は、深瀬慧という肉体を得る事で遂に完成形になったのだ。

映画の中の物語において不気味な影のような存在である両角は、物語外の制作段階においてももとより輪郭のない朧気な存在だった。彼を形作るべく集められた虚ろな要素達がうっかりアンバランスに噛み合ってしまい、微妙なバランス感のまま完成形に“なってしまった”のだ。まるでキメラか鬼子のようで、まさに彼という存在を象徴しているように思える。

その危うさは、彼の所作ひとつひとつにもよく現れている。初めて山城が彼に遭遇したあのシーンの、油の切れた機械の部品が軋むかのような首の動き、深い湖の水面のような空虚を押し固めて作られた瞳の色。彼自ら山城にエンカウントした酒場での、カウンターテーブル沿いに山城の手を握る指の動き、耳元で囁く時の、まるでファム・ファタルのような表情、甘く柔らかな声。山城が幻惑されてしまう気持ちも正直わかるぐらい、人外じみた壮絶な妖艶さがある。それもやはり深瀬慧というひとの表現力の賜物でもあるわけで、単なる話題作りのためのキャスティングではない事はひと目観ただけでわかるだろう。

本編とは関係ないが、現在映画を観たひとの間でTwitterに両角のファンアートが出回り続けているのも興味深い。元々セカオワのファンアートを描いていたファンだけでなく色々なジャンルの絵描きの方が彼を描いてはネットに放流している様子を見ていると、なんだか貞子や伽椰子のようなミームになりつつあるような気すらしてくる。これは流石に言い過ぎかもしれないが、こういう作品を巡る周辺の現象まで込みで『キャラクター』という作品の一環になっているようでとても面白い。

■“あのシーン”の山城の笑顔の理由と残酷な結末について

一旦話を最初に触れた『ルックバック』に戻そうと思う。
視点人物の女の子(後半は大人の売れっ子漫画家になっている)は、少し傲慢な性格をしている。これは特に物語の冒頭の方では思春期特有のものもあるのかもしれないが、彼女の傲慢さも、もしかしたら先程触れた山城が持っている“創作者の暴力性”によるものなのかもしれないと思う。
彼女の場合は小学生の時点で既に勉強も運動も出来る子で、そのうえ学年新聞に漫画を寄稿していた。だからクラスメイトにはかなり一目置かれている。つまり彼女は、幼いうちから人の心を左右する力を手にしてしまっていたのだ。これは簡単に言えば、「調子に乗りやすい状況にあった」と言える。

さっきも少し話したが――彼女にも、そして山城にも、そしてもしかしたらこれを読んでくれているあなたにも。創作者には他人の時間を奪い、他人の人生を左右する力がある。それが“創作者の暴力性”だ。その創作物がたとえどんなにクソな駄作であったとしても、読んだ相手に『時間を無駄にした!』と思わせた時点で、創作者はそのひとから通り魔のように時間を奪う両刃の剣を持っているという事になる。
“狂気”や“暴力性”なんて、殺人みたいないわゆる常識や法律や常軌から逸した行動でしか表現されないものでは決してない。文章を書いたり漫画を描いたり映像を撮ったりというような、一見健康的な創作活動と呼ばれる行為でも、その内側に狂気的な暴力性が秘められている場合が往々にしてある。その狂気がいくところまで行けば――大袈裟な言い方をすると、創作者は神にもなれる。だって、他人の心を左右し、時間を奪い、更には作品の中に登場人物(キャラクター)という新たな命を生み出し、その生殺与奪の権利までをも左右することができるのだから。

映画『キャラクター』のクライマックスでは、とある漫画家らしい方法で両角の凶行を止めようとする山城のもとに、凶器を携えた両角がやってくる。山城の自宅で彼等は遂に一騎打ちになるのだが、そのシーンのなんたる凄惨なこと。男ふたりが差し違える様が描かれているのだが、しかしそこにはカッコイイアクションなどは一切なく、ただただ痛々しく目を覆いたくなるような姿しか映らない。しかし、それがかえって美しく見えるのが不思議だ。
あのシーンで、山城は両角に馬乗りになってとどめを刺そうとする。その時、彼はそれまで見た事もないような、狂気に満ちた笑顔を浮かべるのだ。

目を見開き、口を真横にぐっと伸ばした、まるで人相が変わってしまったかのような、人外じみた狂気の笑顔。

普通ならかなり不自然に思えるタイミングで繰り出された彼の笑顔については色々な意見が交わされているが、僕の目にはあの時の山城の笑顔は、悦楽を感じている笑顔のように見えた。そう、創造主の悦楽だ。

言うならば、両角は彼の作品により最も人生を左右され、しまいには“彼の創作物”そのものと化してしまった人物だ。だから正直、両角は山城の“創作者の暴力性”による最大の被害者であると言えるし、山城がもう少し己の暴力性に自覚的になって漫画を書いていれば、両角が殺人鬼になってしまう事も防げたかもしれない、とすら僕は思っている。
しかし狂ってしまったものは致し方ない。覆水盆に返らず、両角にとってこの時既に山城先生は創造主、神様と同義だ。神の使い、と言っても良いかもしれない。山城は件のシーンで、自分が“生み出してしまった”最悪のキメラである両角に、ピリオドを自ら打とうとした。それは究極の支配だ。少しSMじみてくるが、両角みたいな美しく不気味で凶悪な存在を支配出来るのは、どれ程の快感なのだろうと思う。

そして、そんな山城の笑顔を目にした両角もまた、笑みを浮かべる。その青白く血に濡れたかんばせが見せるのは、まるで憑き物が落ちたような、宗教画の天使のような、怖い程に穏やかで、柔らかい笑顔だ。そのまま安らかな眠りについてしまいそうなあの笑顔は、創造主にピリオドを打たれる事によって、フィクションの世界の中で自分自身という存在が“完結”する事を喜ぶ笑顔なのではないか。
狂気の創造主と、人間存在(キャラクター)としての己が完結する事を悟った死の天使が対峙するあのシーン。その、まるでカラヴァッジオの宗教画のようなグロテスクな美しさは、安いラブストーリーの濡れ場なんかよりも余程エロチックで息が止まりそうになった。

しかし、物語はそこで終わらない。この映画の真の残酷性は、血まみれのアクションシーンなどには存在していない。

ラストシーン、両角は凶悪で美しい殺人鬼としてのアイデンティティをすっかり奪われた姿を見せる。モノトーンの服装が多い他の登場人物に比べ、異様なまでにカラフルな容姿をしていた彼が、このシーンでは枯れた花のように色彩を失っている。淡いピンクに染めていた髪は色が抜け、簡素なカッターシャツとスラックスに身を包み、傷だらけの顔で虚ろな目をしている。その姿はまるで、美しく狂気的な虚構の世界から残酷な現実へ引きずり降ろされた堕天使のようで、それでも尚無垢で美しい相貌がただただ哀しかった。
普通、あれ程までの残虐な一騎打ちの果てにふたりの男が辿り着くのは互いに破滅への一途だ。今までどれ程の膨大な数の男ふたりが刺し違え、その屍を戦場に転がしてきたと思っているんだ。しかし山城と両角が辿る結末は違う。明確に語るのは流石に避けておくが、少なくとも彼等は死ななかった。寧ろ、死んでおいた方が多分フィクションとしては美しく、彼等にとっても救いであったとすら思える。

この、残酷なまでにリアルな結末は「我々は厳しい現実を生きていかなければならない」という事実を僕達にまざまざと突きつけてくる。脚本家の長崎氏はもともと小説家で、かの大友克洋の漫画原作なども手がけている大物なのだけれど、もしかしたら「虚構の創作はあくまでも現実逃避のツールである」という自己批評が込められているのかもしれない。
両角を“美しき異常者”のままにしない終わらせ方は勿論、劇中とある人物に手酷く痛めつけられたとある人物が傷つき、致命的な傷を負う様が執拗なまでに描き続けられていたのも、痛く苦しく一筋縄ではいかない“現実”を、映画という虚構の中に出来るだけリアルに描こうという強い意志の表れなのかもしれない。“漫画”という虚構を重要なテーマやモチーフとしている物語だからこそ、「劇中の漫画以外は全て“現実”として描いていますよ」と強調するためにあのような残酷な表現が貫かれていたんじゃないか。

かの偉大なシェイクスピアの戯曲『お気に召すまま』の、有名すぎるあの一節を思い出す。「世界はこれひとつの舞台、人間は男も女もこれすべて役者にすぎぬ」。もし仮にあの映画の世界を“現実”と仮定するならば、神とかいう存在するのかしないのかもわからない創作者が作りたもうた我々人間という名の役者(キャラクター)を象徴しているのが、紛れもない両角なんじゃないかとすら思う。どの登場人物よりも浮世離れしているのに、生活者として必要なものを予めすべて奪われ、その代わりというには重すぎる程の狂気と美貌を一方的に与えられ、神の使いとも言える山城と引き合わされてしまった彼は、正に“創作者の暴力性”に無自覚な創作者によって翻弄され蹂躙される、人間という名の役者(キャラクター)そのもののように見える。
彼が執着した「幸せな四人家族」は紛れもなく現実世界の幸せの象徴のひとつであり、彼だけでなく我々生活者は「幸せな四人家族」に近しい“理想像”とやらに多かれ少なかれ縛られて生きている。だから今やファンタジーでしかないサザエさんが未だに人気のアニメであり続けているし、結婚や出産、育児、出世みたいなものが我々の生活には何処までも付きまとう。
4人家族に限らず、家族は最小単位の社会だ。家族であれ、もっと大きな社会であれ、その中で我々は役者となってロール=キャラクターを演じて生きている。そうしないと、安心して生活できないから。突然奪い、突然与え、圧倒的な見えない力で突然我々を狂わせてこようとする神とかいうヤツに目をつけられないように、僕達は何かを演じ、アイデンティティを手に入れる。それは丁度、両角が殺人鬼という“キャラクター”を、全身全霊を賭けて必死に生きたように。

何かを演じ続ける事は時々、とてもつらい。他人から求められるものを演じるのは特に骨が折れるものだ。そんな時、自分が本当に“そうなりたい”アイデンティティを――たとえ実際には手に入れる事が出来ないとしても――ひと時でも手に入れる事が出来る方法が実はある。それは何か。
創作だ。

さっき触れた創作者の傲慢さ、“創作者の暴力性”。それを僕はここまで散々危険なものであるかのように捉えてきたが、一方で、この暴力性は我々が生きていくうえでの希望にもなりうるとも思っている。何故なら、観る者の人生の時間を奪い、人生のあり方を大きく左右出来るという事は、そのパワーがもしも良い方向へ作用すれば――救う、とまで言うとそれも傲慢に聞こえるだろうが、その創作物に触れたひとや創作をするひとを、たとえ一時的なものであったとしても、苦しい現実から引きずり出す事が出来るからだ。漫画も映画も小説も音楽も、今自分が現実世界で置かれている状況とはまったく違う物語の世界へ連れて行ってくれる魔法のようなものになりうるからだ。たとえそれが傍目から見れば現実逃避であったとしても、人生の“希望”になりうる。エンターテインメントには、それだけの力があると、僕は思う。

人間は――あの両角でさえ、だ――結局“現実”から逃れられず、周囲から押し着せられる“理想像”に苦しめられ、自分が求めるアイデンティティとは違うキャラクターを無理矢理に演じる事を求められる。しかし、創作にはそこから一時的に人間を解き放つ力があるのだ。

両角の凶行を止めようとするシーンの山城は、冒頭の軽率さを手放し、創作者として、自分自身が持っている暴力性をきちんと自覚し、覚悟を決めたような頼もしさを感じる。まるで売れっ子になる前のようにボロボロの手でペンを握り、紙の原稿に向き合い、恋人にまっさきに原稿を読ませ、身ひとつで脅威へ立ち向かう。たとえ刺し違えたとて、正しい方向へ己の周囲の人々を、己自身の人生を、そして己が生み出してしまった“キメラ”を導こうとする。彼はこの時だけは、自分の持つ両刃の剣を“希望”として奮う決意を抱いていたのではないだろうか。
「漫画の中では間違ったことは間違っていると言えるじゃないですか」と語った彼の正義が、この時だけはやっと正しく働いたように思える。

この感想を読んでくれたあなたも、もしかしたら『こんな駄文を長々読ませやがって!』と今まさに思っているかもしれない。だとしたら大変申し訳ないが、しかし僕はこの映画を見て感じた事をここに書き留めておかずにはいられなかった。何故なら僕もまた、物書きという創作者だからだ。
たとえ己の暴力性を自覚しても尚創り続けてしまうのは、そこでしか手に入らない“希望”があるから。そうしていないと本当に、創作者としてのアイデンティティを見失ってしまうからだ。
だから僕達は今日も創る。伝えたい事と出来る事の間に生じるアイデンティティの乖離に苦しみながら、じりじりと身を削って紙やモニタに向き合い、「僕は誰だ」と己自身に問い続けながら、両刃の剣を性懲りもなく握り続ける。



店主イガラシのnoteが更新されました(2021.8.7)

※お報せが遅くなりましたことお詫び申し上げます。

【7/25】かがやけみらい――Dannie May自主企画『Welcone Home!』ゲスト小林私、感想【@渋谷O-nest】

僕がソシャゲの楽しさがわからないのは、広告のせいかもしれない

■これまでのあらすじ

ロッキン、中止になって残念ですね。どうも、ロックバンドのオタクこと店主です。なんだかディストピアみたいなこの夏、共に乗り越えていきましょう。がんばれにっぽん。

以前こちらで以下のような記事を公開したのですが

僕がソシャゲにハマれない3つの理由―誰か僕にソシャゲの楽しみ方を教えてくれ - 偏好文庫-「好き」を解釈し続けるメディア-

親切なTwitterのフォロワ~氏の中でもソシャゲの沼で見事なクロールを披露する猛者達よりリアクションが来たので満を持してご紹介させて頂こうと思います。と言っても僕の怠惰と忙しさにかまけて随分と間が開いてしまったので軽~くおさらいさせて頂くと、

友人の多くがソシャゲをやっており、その影響でそれなりの知識と推しが出来てしまったものの、いまいちソシャゲの楽しさが理解出来ずハマりきれなくて続かない……すぐアンインストールしちゃう……という状態が長い僕。そんな中途半端な気持ちではレッドオーシャンたるソシャゲ村を統べる神々に対し失礼だろうとの思いに至ったため、

①大半のソシャゲに通じるルールや用語を教えてくれ
②課金との上手い付き合い方を教えてくれ
③ソシャゲを楽しむ皆さんのところの、それぞれの本丸やカルデアなどでの自分とキャラクター達との関係性を教えてくれ

といった3つのポイントについて詳しいひとに教えてもらおう!

という事になっていたのでした。

とはいえ始めたばかりの方向性ユラユラ、知名度ゼロのうまれたてブログですのでそれ程沢山リアクションが来たわけではありません。数としてはたったの4人だったのですが――その内容と文才があまりにも炸裂しており、皆さんそれぞれが取り組むソシャゲという“作品”への熱意をひしひしと感じましたので、出来るだけ丁寧にご紹介したいなと思っております。

あ、君、もしかしてタイトルがちょっと気になってタップしてくれた感じ!? 慌てないで、物事には順番というものがあります。安心してくださいね、意味深なタイトルに関してもしっかり回収しますので少々お待ちを。

まず最初に、店主マシュマロより頂いたソシャゲ愛好姉さん(仮)達からの様々なご意見をご紹介させて頂いてからにしたいと思います。

■姉さん(仮)達からの様々な意見

まず最初に上記で触れた①、②に関してですが……こちらは正直ゲームによって用語が変わったり、個人のその時々のお財布事情によっても変わってくるものなのだろうなあと思うので個人的に学ばせて頂くに留めます。

とりあえずよく耳にする「ピックアップガチャ」ってやつは特定のキャラクターにまつわるアイテムなどが出やすくなるイベントだそうで、推しに関するピックアップがあった時は上手く引ければ新しいストーリーが読めたり新しい衣装が手に入ったりするようですね。そこに重点的に課金するために普段は慎ましくプレイしていくなどの工夫が必要なようですし、前回のエントリーで以下のような事を僕は書いたのですが、

ガチャは推しを一度出すための課金、いわばギャンブルですが、ライブには一度数千円出せばあとは自分のスケジュール調整力次第。まず確実に行けます。確実に目の前に存在する推しをこの目で観られる、課金としては抜群のコスパだとは思いませんか。


別にガチャも「推しを一度出したら終わりのギャンブル」というだけではなく、「頑張って出せれば最新の推しの姿が更新される」という点において我々がライブに通うのと同じように分散的な喜びとなり得るようです。これは正直目から鱗だった……自分が身を置くメインフィールドとわざわざ比べて、どうにも虚しい賭け事みたいな言い回しを使ってしまった。申し訳ないです。

んで、最も興味深く、今回特に重点的に話したいと思っているのが③に関してです。

前回のエントリーでもお話したのですが、ソシャゲの中で取り扱われるプレイヤーとキャラクターとの関係性としての設定でよくある「マスター・アンド・サーヴァント」関係。僕はこれが苦手。例えば推しキャラがアイドルで僕がプレイヤー=マネージャー=雇用主に近い存在である設定の作品だったとすると、どっかしらで推し=従業員から“媚び”に近い接し方をされてしまうのではないかと思ってしまうんです。こちとら90年代バンドブーム生まれゼロ年代フェスブーム育ち、ステージの上のロックミュージシャンを見上げて育ったのでかわい子ちゃんにも「プロデューサーさん♡」されたくないなあって。恋は追われるより追う方が好き、推しにも当然追われる方であってほしいんです僕から見て。

だがしかし。僕のこの頑固なこだわりはソシャゲの一側面しか見ていないが故の徒労に過ぎないという事が今回のアンケートでわかりました。
ソシャゲのプレイヤーとキャラ、別に必ずしも「マスター・アンド・サーヴァント」にならんでもええのや。

ここからはご回答頂いた皆さんの名文を引用しつつ、「私と推し(キャラ)」の距離感や関係性を4つの傾向に分類してみたいと思います。

■ロッキン2万字インタビュータイプ

まず最初にご投稿くださったお姉さん(仮)はイケメン役者育成ゲーム「A3!」のプレイヤーなのだそう。最近めっぽう2次元に疎くなってしまった僕でも聞いた事のある作品です。昔下北沢でコラボイベントやってましたよね……?
お姉さん曰くこの作品の中でプレイヤーは「監督」と呼ばれるそうで、おそらく一般的には我々はプレイ時にその「監督」に成り代わって物語を進行していくのかなと思うのですが、お姉さんはどうやらそういう自己投影はしていないようなのです。どういう事なのでしょうか……?

ゲームを進める上でのプレイヤーで「監督」というキャラクターが出てきますが、私がプレイする際には「私(自分)=監督」ではないと思ってプレイしています。もちろん、「私=監督」と思ってやっている人もいますが、私はどちらかというと「俳優のファン」として彼ら(本編に登場するキャラクター達)のことを見ています。ストーリー上で監督に向かって話しかけてくる部分はアニメを見ている感じというか、画面の向こうから眺めているような感じです。ロッキンの20000字インタビューとか読んでる感じにも近いかもしれません。
私はインタビューを読んでるけど、インタビューをしているわけでもないし、バンドマンが私に話してくれているわけじゃない。でもインタビューを読めば本来知り得なかった彼らのことが見えてくる。
ファンとしてそのインタビューを見たいので、パーソナルストーリーを読むために私はガチャを回しています。長文乱文失礼しました!

(少し編集を加えた上、該当箇所のみ全文掲載しています)

なるほど、めちゃめちゃわかりやすい。そしてあなたのその眼差し方、めちゃめちゃ好きです。

「ゲーム」という構造上、その物語の中に没入=物語の登場人物にならなければいけないものなのだと僕の固い頭は思い込んでいたんですね。しかしこの「ロッキン20000字インタビュー」的なスタンスなら、別にその物語の中に自分を無理矢理位置づける必要性はない。少し離れた場所から適切な距離で、推しの活躍や歩んできた人生を見つめる事が出来る。「追われるより追う方が好き」なオタクになんとぴったりなスタンスかと目から鱗が落ちる視点でした。

■コンテンツ黙示録タイプ

お次のお姉さん(仮)からはかなり熱烈な文章を賜ってしまいました。ですので、該当箇所をほぼ編集なしで掲載させて頂きたいと思います。個人が特定されるような要素はないかと思いますが、身に覚えのある方はどうかお許し頂けましたらと……。

アイドルマスターシンデレラガールズというソシャゲを愛しています。このソシャゲはリアルライブも開催され、人気キャラは『ボイス』を獲得し、ゲームから飛び出して目の前で歌って踊る瞬間の多幸感は言い表すことの出来ないものです。ゲーム内では毎年人気投票に基づいた総選挙が開催され、無情なランク付けが行われる中で輝く番狂わせとその後のリアルライブでの歌唱は現実とリアルがリンクした正にシンデレラストーリーで、涙涙の檜舞台です。サービスが始まって今年で10周年。190人以上のキャラクターが登場し、『ボイス』を得たのは半分にも満ちませんが彼女達は悲喜こもごも何もかもひっくるめてライブでシンデレラの魔法をかけてくれます。挫けてしまったユーザーの屍を乗り越えて響く歌に一抹の侘しさを感じながら、ここまで自分が生き残ってきたことに自画自賛し破天荒なこのコンテンツの行く先を見届けることが先人達への弔いになることを信じています。

(一部改行を加えて該当箇所を全文掲載しています)

最早文学。いや、お姉さん(仮)の文章も勿論なのですが、このスタンスで接するコンテンツって、もうそれ自体が“文学”じゃないですか?

おそらく個人差はあると思うのだけれど、小説や漫画を読む時って大半のひとが物語を少し引いた目線、言わば“神の目線”から見ているんじゃないかと思うんです。それは三人称(彼/彼女/そのひと、などが主語)で綴られる物語が特に顕著かと思うのだけれど、たとえ一人称(僕/俺/私その他)で綴られた物語であったとしても読者はあくまでも“物語”という構造を楽しんでいるという点では“神の視点”なのだと思うのです。じゃなければ推しキャラが死んだ後の物語なんか読んでられませんしね。

その眼差しからはまるで、無力に世界を見つめ、脳内に黙示録を刻み込むような静謐な快楽を感じます。何処へ転がるかわからないゲームというコンテンツ=物語の行く末を目に焼き付けたいという欲求は、「一度開いてしまった本は最後まで読み切りたい、登場人物の行く末を見届けたい」と情が移ってしまいがちな本読みの僕にも理解が出来ます。それは熱烈な愛情か、はたまた純粋な全能感か。

■流されエンジョイ(時々夢妄想)タイプ

お次のお姉さん(仮)は、「偏好文庫のファン」と公言してくださっているお姉さんです。ご愛顧誠にありがとうございます。更新が亀通り越してカタツムリレベルでごめんなさいね……。
「ソシャゲをぶん回すタイプのビレッジマンズストアのオタク」とのことで、キャラクターとの絶妙な距離感がこちらも参考になりました。以下、ほぼ編集なしで掲載させて頂きます。

ゲーム内で示されている関係性を主軸にして遊んでいるため、私は彼ら(キャラクター)のクラスメイトだったりマネージャーだったり様々です。
基本ソシャゲの主人公は無口なので空想し放題ではあるのですが、下手に空想すると公式との解釈違いが起こったりするので、流されるままにストーリーを受け止めています。
そうするとだいたい、何事にも冷静に応じがちな主人公が出来上がります。
が、根っからの夢女(推しとの恋愛を空想して楽しむ人間の俗称)でもあるため、空想の時は主人公キャラと同じ時間軸を過ごしてきた別人格を用意し、推しキャラとの恋愛に思いを巡らせたりもします。ご都合主義的に人格を繰り出しています。

(一部編集を加えた上で該当箇所をほぼ全文掲載しています)

なるほど! これはひとつ前の「コンテンツ黙示録タイプ」に近いかもしれない。確かに変に空想しすぎてしまうと思い込みに繋がって、いわゆる「解釈違い」とやらに悩まされなければならなくなってしまいますもんね。もしかしたらこのスタイルは「ありのままの彼ら(キャラクター)の物語を純粋に楽しむ」を軸にしている点において「ロッキン2000字インタビュータイプ」にも近いかもしれないですね。さすがはビレッジマンズストアのオタク。

恋のときめきなんぞは必要になった時に随時プラスしていけば良いというのもとても合理的ですね。

因みにお姉さんは今人気の「あんスタ」と「ツイステ」をプレイされているそうで(さすがの僕でも知ってるレベル!)曰く「どちらも恋愛要素がなく、主人公とキャラたちの間に上下関係が無いように感じます」との事でした。
いやまじで……? バキバキに乙女向けだと思ってた……そんなにフラットな構造のゲームなん……? 僕、正直“女性向けソシャゲ”と“乙女ゲーム”って近しいものだと思っていたのだけれど、もしかしてそのふたつの間にはドーバー海峡並の乖離があるのか……?

■没入自己投影タイプ

最後にご紹介するのは、実は前回の記事で少し触れた「ボーナスを注ぎ込んで推しを引き当て、ツイートをバズらせた友人」からの投稿です。以下が該当のツイート(掲載了承済み)。

この友人は絵描きでかなり長い付き合いになるのだけれど、めちゃめちゃ文才があるので、一旦とりあえず読んでほしい。ちなみにプレイ作品はFGO。ほぼ編集なしで掲載します。

記事で触れて頂いたようにインド叙事詩の英霊に傾倒する私の主力メンバーはまさにインド。毎日がダンサブル、勝利の後は間違いなく全員でダンス。
カルデアは「人の未来を守る機関」であり「今の人の世界を守る為にもしもの世界を潰していく機関」です。重い。正義の為に他の正義を潰すのは辛すぎて毎回胃が痛いです。でももともと私は「私を好きでいてくれる人が好き」なので、そういう人がいる世界を結局優先すると思う。とか考えることもあります。
私はだいぶ感情移入型なのでかなり没入してストーリーを楽しめる得な人間であり、妄想を得意とする腐女子なので、自分のカルデア(以後、弊デア)妄想がそれはもう楽しい。
弊デアの私は人類最後のマスターだけど責任感に弱いし酒に救いを求めるし、喋りたい時と黙りたい時の差が激しいし…みたいなリアルそのままの感じなので、サーヴァントに助けてもらってる所が心理的に他マスター以上だと思うんですよ。
でも普段は楽しくありたい。真面目な事は真面目な場面その瞬間に考えればいい。馬鹿になって酔っ払ってヘラヘラしていたい。弊デアの主力メンバーは多分、そんな私を叱りつつ、呆れつつ、否定しないサーヴァント達だと思うんですよね。ほぼみんな善属性だし。
マスターとサーヴァントだけど、弊デアはビジネスライクには全然なれなくて、でも皆がなんとなく「もう、しょうがねーな」って許し合えて、喜怒哀楽を出しても誰も咎めないし咎められない、そんな所なんですよ。

(一部編集を加えて該当箇所をほぼ全文掲載しています)

もうさ……コイツ、昔から創作もやるし(なんなら合作してた事もあった、結局その作品はエタってしまったけれど。良き青春の黒歴史)良い二次創作も描くのだけれど、それは多分これだけ作品に没入出来るからなのか~! と思ったよね。感情がデカい。わかる、わかるよ。僕もクソデカ感情持ちのオタクだもの。

それにしても、彼女のこの投稿が全てを象徴しているなと思うのが、作品(ゲーム)に愛を持ち、自分のスタンスを明確にしていったり自己投影/妄想をたくましくしていけばしていく程に、画一的な「マスター・アンド・サーヴァント」関係やイケメン/美少女ハーレムウハウハ関係から乖離していくものなのだなあという事ですね。

彼女にとっては“弊デア”のメンバーは部下やなんでもお願いを聞いてくれる使い魔みたいなものではなくあくまでも仲間であり、家族のような、支え合い寄り添い合う存在なのだと思います。

ここまで紹介させて頂いてきた他のご意見も結局そう。その作品(ゲーム)のキャラクターを「追いかけるべき憧れの存在」や「行く末を見届けたい、慈しみたい存在」などそれぞれ違った目線で見つめており、総じてその眼差しは温かく慈悲に溢れているように思えます。


ここまで皆さんのご意見を伺ってきて知ったのが、ソシャゲってやつにはRPGのような決まった大きな物語の流れはなく、大まかな設定だけがあり、随時イベントストーリーやガチャで当てたら見られるみたいなサイドストーリーが更新されていく、といった仕組みのものが大半みたいです。言ってしまえば行間読みまくり、妄想しまくりが可能なわけで、より自由度の高い娯楽であると言えます。そりゃ、楽しみ方は人にもよって変わってきますし、作品の設定によっても変わってくるはずです。言わば無限の楽しみ方があるのがソシャゲなわけで……



え、ちょっと待って。
じゃあ、どうして僕はこんなにも、ソシャゲのプレイヤーとキャラクター=「マスター・アンド・サーヴァント」関係or「ハーレムウハウハ以下略」みたいな関係なのだという、画一的な思い込みを持ってしまったんだ……?



■僕の“ソシャゲ観”、広告に左右されすぎ…?

で、色々考えたんですけど。

僕のこの、いささか偏った“ソシャゲ観”が育ってしまったきっかけって、アレのせいだと思うんですよね。

そう、ネットでよく見かける、Twitterとかでもよく見かけるあの、ソシャゲの広告です。


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(※画像はイメージです。キツモザかけても尚うっすらと見える女体)

実在する作品の事は悪く言いたくないので実在の例は敢えて出しませんが(ゲームはクリエイターの魂の結晶だと思っているので……)、多分みんな同じものをイメージしてくれたのではないでしょうか。実際こんな記事(ツイート)もあるぐらいなので、ある種一定の求心力が望める広告の形態として確立されているのだと思います。

まあそりゃ釣られますよ、みんなイケメン(または美少女)もおっぱいも好きだもんね。僕もそう。イケメンも美少女もおっぱいも好き。だからこそなのでしょうね、この世のありとあらゆるソシャゲに対して、「イケメン(or美少女)=擬似的恋人」か「おっぱい=性的客体」を提供してくれるサービスである、と無意識下に植え付けられてしまったのだと思うんです。決してそんな事はない、それだけじゃない、作品によってストーリーも楽しみ方も違うのだと言うことはオタクの想像力を活かせばすぐにわかる事です。でもこの広告って、少しでもネットに触れていれば毎日毎日目に入ってくるんですよ。ある種サブリミナルですよね。それによって植え付けられてしまった認識ってもんは、意外としぶとくてしかも本人にはなかなか気づけないものです。マシュマロに投稿くださったお姉さん達、僕の中に植え付けられてしまった偏見と向き合う機会を有難う。


めちゃめちゃ私事なのですが、正直僕自身、今イケメンも美少女もおっぱいも好きとは言ったのだけれど、いわゆる恋シュミ的なゲームで提供される「女として愛される」「男として求められる」みたいな(しかも不特定多数の美形に)シチュエーションに萌えないんですよね。自分はノンバイナリーなので触れ合ったり憧れたりする対象の性別をあまり意識する事がない(し、したくない)というのもあるかもしれませんし、やっぱり「追われるより追う方が以下略」のせいかもしれませんし。だからこの、性別二元論的&恋愛至上主義的広告に、うっすら嫌悪感すら抱いてしまっていました。


では何故そんな広告が多いのか? それはやっぱり、恋愛とえっちなものは金になるからなんじゃなかろうかと思います。この世に溢れる恋愛ドラマ、恋愛映画、いくら月9で恋愛モノが放送されなくなったとは言え一向になくならないじゃないですか。若手のイケメン俳優やジャ︎○ーズは必ずと言っていい程キラキラ少女漫画原作映画に出ますし。

えっちなものに関してはそもそも性は人間の三大欲求に密接なものですからね。

僕みたいなヤツの方が少数派で、世間一般の多くの皆さんは恋愛に伴ってセックスもしますしなるべくおっぱいの大きい女の子達にちやほやされたいのだと思います。
だからきっと、広告としては効果的なのでしょう。いささか短絡的にも思えますが。


今でこそ極端に悪い偏見は減ったように思えますが、昔、ご時世的にオタク=犯罪者予備軍というイメージが強かった時代には、ロックンロールオタク少年だった僕はテレビによって作られるオタクの悪いイメージに噛みつきまくっていた事もありました。年齢がバレるな。
でも結局、僕も所詮はあの頃の大衆と一緒だったのだと思います。無意識下に刷り込まれた短絡的な印象を、そのまま受動的に受け止めていただけだった。

■先入観を捨てよ

以前とある友人を初めてライブに連れていった時に、とても楽しかったと感想を伝えてくれたのと共に「ライブハウスってリア充が行くところだと思ってた」と打ち明けてくれた事がありました。もともと陰キャのオタクだった僕自身も昔はそう思っていたのでその気持ちはめちゃめちゃわかりました。

でも意外と、ライブハウスに出入りしている音楽好きにはオタク気質のひとも多いように感じています。その証拠に、バンドやシンガーソングライターのファンダムって意外と昔からファンアートが盛り上がってるんですよね。オタクは往々にして絵を描きたがるので。

結局僕がソシャゲに対して抱いていた「ヘテロの男女が」「理想の異性を我が手で育て上げ」「育てた理想の異性に囲まれてちやほやされる」事を期待して行う、というイメージも、その友人がライブハウスに抱いていた「リア充が集まってなんか音楽に合わせて踊る」みたいなイメージと同じだったのだと思います。コンテンツの楽しみ方には無限の多様性があり、沼に潜ったひとに聞いてみないとその本質はわからないのでしょう。

(一方で、ゲーム自体の構造もそういう「ヘテロの男女が」「理想の異性にちやほやされる」事を求めてプレイされる事を前提としているものがやっぱり多いな、とも感じるのが正直なところです。だってじゃなかったらここまで提供されるキャラクターが美少女だけ/イケメンだけの作品が多い事ないですからね。やはり疑似恋愛的な要素はビジネスとして成功しやすいでしょうから、そういう風潮がある限り作品自体も恋愛至上主義的&画一的な広告を暗黙のうちに良しとしてしまうしかないのかもしれません。その点でFGOってすごいよな、サーヴァントの性別もルックスも多様性ありすぎだもんな)(最後までチョコたっぷりだもんな)(また世代がバレる)

街で見かける広告、テレビから流れるCM、そのすべては計算し尽くされていて、良い意味でも悪い意味でも見るものの無意識下にするりと入り込み、その商材の印象を巧みに植え付けます。多分僕達の身体の中にはそうやって植え付けられた無数の先入観が詰め込まれていて、そのせいで頭ごなしに排除してしまい、魅力に気づけないまま眼中から消えてしまった作品やコンテンツが、この世には無数にあるのかもしれません。それってかなりもったいない。

今一度、無意識が作ったくず箱をひっくり返して、無数のデブリの中から星くずのようなコンテンツを探し出してみたくなったアンケートでした。ご協力、本当にありがとう。



さぁてそうと決まればとりあえず今回投稿くださったお姉さん(仮)達お薦めのなんらかのゲームをDLするところから始めようかなと思いつつ、この記事を編集し始めて早2ヶ月程。






あの……めちゃめちゃ言いにくいんですけど……まだアプリストアで検索すらしてません……。
何故なら、生活の中でソシャゲに割ける時間がないので……。


実は自分、小説を書いているんですね。「女体化する宇宙人のベースボーカルと陰陽師のギタリストと魔法少女(♂)に変身出来るドラマーとクソショボ超能力者のギターボーカルの4人組バンド」が登場する一応ジュブナイルSFなんですが、ある種ロールプレイング的な“架空の人間との関係性の構築欲”みたいなものはここで満たされちゃってる可能性すらある気がします。(良かったら読んでってくれ~!!!


そのせいか毎日の中でソシャゲに割けるリソースがなさ過ぎる……もしかしたら、これこそが僕が昔からソシャゲに限らずゲームのプレイを続けられない最大の原因かもしれません。完全に言い訳ですね、許して。


とかくオタクの毎日は忙しすぎる。助けてくれ~!


ROOTS FACTORYの“あの椅子”と、あの子と過ごした下北沢の午後-(いつか)欲しいもの/欲しかったものリスト①

「(いつか)欲しいもの/欲しかったものリスト」とは……いつか欲しいもの、いつの日か欲しかったものについて書くささやかな半ノンフィクション短編小説シリーズです。

 

「店、どう?」最近訳あって地元から少し離れた街へ引っ越した友人が、少しだけ僕を見上げて言った。4月の終わり、気忙しい夏がうっかり追いついてしまったかのように暑い午後だが、日陰に吹き抜ける風はまだ若葉の匂いがした。

「まだ全然よ。知り合いの編集者さんとか絵描きはSNSとかでもめっちゃ推してくれてるけど、やっぱ前途多難さね」自虐混じりに返す。緩やかに靡く友人のチェック柄のロングスカートの裾に視線を泳がせる。もしかしたら今僕は、もうすぐお嫁に行くこの子の恋人にでも見えていたりするのだろうか。

最近、本屋を開業した。貯金がある程度溜まったのと、憧れて就いた編集の仕事が思っていた以上にハードだったため心身を少しおかしくしてしまったのが重なって、ほぼ勢いに任せて会社を辞め、物件を買った。地元から数駅の、郊外の寂れた路地裏にある小さな小さな路面店。本当は今来ている、大好きな下北沢に店を構えたかったが、流石にそんな経済力も勇気もなかった。家も店の2階のささやかな六畳間に引っ越したのでローンのほかに家賃を払う必要は幸いなくなったが、それにしても狭いし生活の基盤が不安定すぎる。今は社会人になってからずっと細々と続けてきたライター業でほぼ生計を立てている。知り合いの絵描きや物書きの作品や、世界中からネットを介して集めてきたこだわりの蔵書たちは一向に売れない。1文字0.5円の仕事でも、ハッタリばかりの恋愛コラムでもなんでも請けるしかなかった。

「コロナがなきゃねえ」しみじみ、というふうに友人が言う。どうせ、この歳になってコネもなくライターとしてもさして名が知られてもいない人間が営む本屋など、このニューノーマルの世の中でなくてもすぐには軌道に乗らなかったろうとは思うが。僕は友人の精一杯の善意に甘えて曖昧に笑う。友人はかつて作家を目指していた僕に、「いつか君は直木賞を獲る」と言い続けてくれた。

「でもさ、アップルもジョブズの自宅のガレージから始まったって言うぐらいだからさあ、これからいくらでもでっかくなれるよ!」「ありがと。君良い友達やなあ」それほどでも、と照れてみせる友人が、古着屋の店先のセール品から引きずり出した柄シャツのどぎつい幾何学模様が青空に映えた。

路地に一歩入り、宛もなく歩き回る。どうせ20時には大体の店が閉まってしまうから早いところ夕餉の場所を探さなければ……とズボンの尻ポケットからスマホを取り出しかけ、僕は思わずそのままスマホカメラを目の前の物体に向けてしまった。

そこには、小さな看板が控えめに立っていた。


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“あの椅子、あります”

「あの椅子……って、なんだ?」思わず口をつく。友人も僕の視線の先を辿って、同じく首を傾げた。「知らない、どんな椅子?」

僕はあまりの怪しさに少し懐疑的であったが、友人がたいそうノリノリで看板が導く更に細い路地を覗き込んでいたため、そんな怪しさ満点スポットに嫁入り前の女子ひとり送り込む訳にはいかないのでついて行ってみる事にした。でもなんかこれ、見た事ある気もする。脳裡を過るのは某ベテランお笑いコンビがいわゆるナビゲート役を務めるのんびりモヤモヤした街ブラ番組だ。多分そう、あれで見た。だからきっと、大丈夫だろうけど……。

年季の入ったアパート風の店構えの前に差し掛かって、友人が元気に言った。「あ、あの椅子だ!!!」

「だからどんな椅子!?」要領を得ないリアクションに思わずツッコむと、開け放たれた白い扉の奥からにこやかな声が飛んできた。

「いらっしゃいませ!」

 

小さいながらも開放感のある板張りの床の店内には、白い壁に映える木目調の家具がゆったりと、幾つも並べられていた。店の中央には棚が設けられ、そこには“あの椅子”――「モンペスツール」がショーウィンドウのケーキのように可愛らしく陳列されている。


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すみません、外の看板を見て来たんですけど、と話すと、店のお兄さんは爽やかな笑顔をより一層晴れさせてそうでしたか、と頷いた。照りつける西陽が和らぐように、心に一陣の風が吹く。

「こちらが“あの椅子”です」と紹介されたモンペスツールは、正方形に近い形状のコロコロとした小さな椅子。申し訳程度の木製の脚がちょこんとついていて、体重をかけたら折れてしまうのではないかと少し不安になる程の可愛らしさだった。

呆気にとられる僕と“あの椅子”の想定外の可愛らしさに表情を目に見えて明るくさせた友人に、お兄さんが「可愛いでしょう?」と言う。

「こちらは日本人の生活スタイルによく合う形に作られた超低座スツールで、畳敷きの部屋でもローテーブルに合わせてもすっと馴染む高さと大きさが特徴なんです」

確かに、この高さなら床にそのままベタ座りするよりも清潔だし、畳に正座するよりも足腰への負担が少なそうだ。試しに友人に座ってもらったが、スカートの女性が座っても裾をそれ程引きずらないで済む程度の絶妙な高さ。


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「色もいろいろあって、それぞれに名前もついてるんですよ」

「ほんとだ、カステラとかフラミンゴとか、お菓子みたい」友人が愉快そうに言った。確かに、見た目も焼き菓子やキャラメルのようで可愛い。テーブルに合わせるような足の長い椅子を畳敷きの和室に置いたら勿論浮いてしまうだろうし、今自分が住んでいる狭い狭い部屋に突然お洒落な椅子を置くとなると抵抗があるが、これなら気軽に取り入れられそうだ。

「当店は家具のリメイクやオーダーメイドをメインに取り扱っているんですが、モンペスツールのようなオリジナル商品も淡路島にある自社工場で作っています。デザインも社長自ら手がけてるんですよ」

えっ社長すごい。思わず口をついて飛び出してしまい、お兄さんの口もとを少し綻ばせてしまった。お兄さんは続けて「女性のデザイナーとかだと思いました……?」と問いかけてくる。「正直、そう思ってます」と大真面目な顔の友人が返すと、お兄さんはとっておきの秘密を教えるかのように言った。

「実は、おじさんがデザインしてるんですよ!」

茶目っ気溢れるお兄さんの案内で店の中もよく見せてもらった。直ちに購入するつもりでやってきた訳でもない若人ふたりに対してとても優しい。まさか、新居に置く家具を探している新婚カップルだとでも思われていなければ良いのだけれど。そんな事があれば、とてもじゃないが彼女の好いひとに申し訳が立たない。

シックな応接セットからおもちゃ箱をひっくり返したようなビビッドな色合いの姿見、古い箪笥をリメイクしたテレビ台など、店に置かれていた家具はどれもお洒落で、特にリメイク品は家具がそれまで生きてきた歴史が失われていない、独特の味みたいなものがあって素敵だ。なんと、過去にはDJブースからレコードラック、お仏壇まで製作に携わった事があるのだという。


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友人が「脚だけ赤くて可愛い」と言ったテレビ台は、もともとは大きな箪笥の一部だったらしい。お兄さんの説明を受け、友人は両親にも薦めます、と言った。

「こういうのも良いなあ、母が嫁入り道具の箪笥を持て余してるので……」

つられて僕も、実家に天板が膨張して開かなくなってしまった母の嫁入り道具の和箪笥がある事を思い出した。

中でも異彩を放っていたのがこれだ。


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なんだと思いますか、というお兄さんの挑戦的な問いに対して、「……ス?」と真っ向から受けて立つ友人。そら見りゃわかるやろ、と思う僕の脳裡に天啓が訪れた。まさか、これは“ス”の椅子――「スイス」ではないか!?

お兄さんはにっこりと微笑んで、まるでイキリ腐った小学生クイズ王のような勢いで回答してしまった僕に親指を向けた。「正解!」

 

ねえ、私あの椅子君の部屋に似合うと思うの。友人が朗らかに言う。どうせスイスの事だろうと思ったら、やはりそうだった。流石にあれを自宅に置くのは少し気が引ける。

店を出るとすっかり陽が傾いていた。いつもは駅前の方から路上ミュージシャンの歌声が聞こえてくるものだが、緊急事態宣言の影響かこの日は怖い程静かだ。夕陽が完全に姿を隠してしまう前に、適当な食事や酒を嗜める店を探さなければならない。

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「それより君はどうなんだい? 新居の家具は足りてるのか」「さすがにもうミカン箱でお夕飯食べたりはしてないけれど」「お洒落な椅子ぐらい1個2個、彼とお揃いで置いてみたらどうだ」

まるで自社製品でも薦めるように言ってしまうのは、多分僕も“あの椅子”が欲しいからだ。しかしいわゆる天然なところがある振る舞いに反して堅実主義な彼女は「うちのひとと相談してからかな……」とワンクッション置く。確かに、お値段はそれなりに張った。あれだけこだわりの詰まった家具として考えれば嘘のように手頃だが、衝動買い出来る程景気も良くない。でも、なんだか僕は“あの椅子”が、あの狭くささやかながらも初めて持った僕の城の焼けた畳に無理矢理敷いたオンボロのペルシャ絨毯の上に、2個3個と並んでいるさまを鮮明に想像する事が出来た。そこに腰かけ談笑しているのは、今僕の隣でコメダ珈琲店に行きたがっている、もうすぐお嫁に行く彼女……そして、いつか共に青春を過ごした旧い友人たち。

 

世の中に絶対なんてないけれど、僕はいつか、“あの椅子”を絶対に買うのだろう、と思った。

 

洗練されたデザインのイタリアの高級家具に幾度憧れようとも、オンボロな我が城(六畳間)に置いてあるさまなんてまったく想像出来なかった。でもこの日、僕には生まれて初めて憧れの家具が出来た。友人には申し訳ないが、直木賞の受賞会見で質疑応答を受ける自分の姿なんてまったく想像出来なかった。でも、この憧れの街にあるヴィレッジヴァンガードで大勢のファンに囲まれ、自著にサインをする自分ならかろうじて想像が出来る。その程近くの雑居ビルの一角に、幾分か大きくなった自分の店を移転させて奮闘する自分の姿も。

憧れとは、ほんの少しの具体性に宿るものなのかもしれない。

 

(劇終)

 

■今回の(いつか)ほしい物

「ROOTS FACTORY 東京店 SHIMOKITA BASE」の「モンペスツール」

お邪魔した店舗:〒155-0031 東京都世田谷区北沢2-39-18

※現在平日は予約制

https://roots-factory.com/tokyo

 

■リアルほしい物リスト

(貰えるものならなんでも嬉しいです。ここにないもので店主に布教したいもの、記事にしてほしいものなどありましたら送り付けて頂いても構いません。)

 

 

 

店主イガラシのnoteが更新されました(2021.6.5)

【5/13】たとえ何処にも行けなくても――TempalayのZepp Hanedaワンマンライブに連れて行ってもらったら凄まじかった話

 

見知らぬひとびとがわちゃわちゃしている動画をミリしら状態で観ても果たして癒されるのか

■バンドマンがわちゃわちゃしている姿を観るのは楽しい

 

お久しぶりです。三度の飯よりロックインジャパン、今年既に月イチでライブに行けていて改めてその有難みに打ち震えております。どうも、ロックバンドのオタクです。

 

突然ですが僕はバンドマンがわちゃわちゃしているだけの動画を観るのが好きです。いや突然何言ってんだって感じですよねわかる。とりあえずこちらを観てみてください。ちらっとで良いので。

 


【KEYTALK TV】「お年玉缶バッジ」お絵かき会 - YouTube

 

 

MVとかではないです。イマドキ流行りの言い方で言うと、Vlogってやつでしょうか。とにかく、普段推しているバンドのメンバーが普通に過ごしている日常の様子、メンバー同士が仲睦まじげにしている様子を切り取った動画を観るのがとにかく好きなんです。

 

彼等の本分は音楽。いわば音楽は肉汁ジューシーなハンバーグで、こんなもんは付け合わせのにんじんグラッセにすぎないわけですが、だからこそ美味しく頂きたいものです。ハンバーグが美味しいからこそ、付け合わせのにんじんグラッセだって口に合うものがいい。この一億総YouTuber社会では意外とこういうサブコンテンツを提供してくれるバンドは多いんですよ。バンドマンってライブばっかりやってるイメージでしょう。

 


【KEYTALK TV】10周年記念総集編Part.1<2010-2012> - YouTube

 

こちらは先程のKEYTALKが定期的に公開している動画コンテンツ『KEYTALK TV』の総集編。インディーズバンドが華やかに羽ばたいていく様子が淡々と&面白おかしく切り取られていてエモエモのエモだ

 


2019/5/29 金ようビレッジ episode.5『俺とお前とお前と俺が討論』 - YouTube

 

昨年の緊急事態宣言下、ライブの機会を奪われた名古屋の大いなるライブバンド・ビレッジマンズストアが産み落とした徒花。リモートでのトークやゲーム大会という今のご時世らしいスタイルのもと貴重なメンバーの素の姿が垣間見られてよき

 


塩ちゃんねる 11月号 - YouTube

 

こちらも数年前に実施されていた、中堅ロックバンド・LACCO TOWERによる動画コンテンツ。彼等は個人事務所も運営しているのでDIY精神がすごい。こちらもバキバキのロックバンドなのでファン以外の人から見たらなかなか貴重

 

例を挙げるとしたらこんなところですね。

 

こうやって見ると楽曲のクオリティが高くて活動規模に関わらず熱烈なファンがついているバンドが多いイメージ。やはり彼等のサービス精神の豊かさが窺えるのが何よりも素晴らしくメンバーのマンパワーの強さも窺えるため鑑賞のし甲斐があr……

 

なんて

 

硬派な音楽ファンらしく御託を並べてみようともしましたが、

 

やっぱり

 

推し達がわちゃわちゃしている姿を観るのは楽しい

 

これに尽きます。

 

 

そもそも僕は子供の頃から喧嘩が嫌いです。仲良しそうなアイドルグループやバンドの名前で検索するとサジェストに「○○ 不仲」が出てくるreal、何よりもhellだなと思っています。バンドやアイドルの平和的でない脱退騒動などはたとえ知らんグループの話でも見ていて胸が痛むし、ひとがバンバン死ぬミステリやフィクションの残虐アクション以外でひとがいがみ合い喧嘩している姿を見たいだなんて誰も思わないはずです。(えっ、思いますか? そうですか、あなたそういうタイプのひとですか。ではここからは「心優しい一小市民はひとがいがみ合い喧嘩している姿を見たいだなんて思うはずがない」という前提でお話を進めていきますので、どうかブラウザバックをお願い致します。)

 

人類はもともと、平和を愛するように出来ているんです。特に今はひとに会うのも躊躇われるご時世ですし、誰もが人肌の優しさに飢えているのではないでしょうか。そんななかでひとびとがいがみ合う姿なんぞ観せられてしまったら、モニタへ右ストレートでは足りません。

 

見知らぬひとびとでもいがみ合っている姿を見ていたら胸が痛む。――その時、僕は悟りました。

 

もしかしたらこれは、逆説的にも解釈出来るのではないか?

つまり、見知らぬひとびとが仲睦まじげにしている姿を観せられても、たとえそのひとびとの事を一切知らない状態であったとしても心癒されるのではないだろうか?

もしかしたら僕は、上記で提示したバンドマンのわちゃわちゃ動画だって、「日頃から好きなバンドだから」という理由だけで癒されていたわけではないのではないのだろうか……!?

 

というわけで、

 

フォロワーに募集しました。

 

 

当方、フォロワーよりもフォローの方が多いタイプの底辺ライターなのであまり数は期待していなかったのですが、あにはからんやいつもお世話になっているフォロワーさん達が上質な映像を次々提供してくださり、最終的には計10本以上の動画が集まってしまい、普段はほぼMVと数本のASMR動画しか入っていないYouTubeの「後で見る」リストが随分と華やかになってしまいました。やはり持つべきものは趣味の近い、理解ある優しい友人達やフォロワーですね。

 


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というわけで、今回の趣旨を改めて説明させて頂きます。

 

【フォロワー推薦「見知らぬひとびとがわちゃわちゃしているミリしら動画」鑑賞の注意点&ルール】

・有名YouTuberの方の動画などが大量にありますが、先にお話した通り当方は普段YouTubeではほとんどミュージシャンのMVしか観ないためあまりその界隈は詳しくありません

・そのため、有名YouTuberの方の動画などもそのひとの人となりはよくは知りませんし、推薦して頂いた動画以外を観たりググッたりはしない=いわゆる“ミリしら”の状態で観ています(これは「見知らぬひとびと」のわちゃわちゃしている姿を観る、という状態をより強化するために行っています)

・よく知っている、いわゆる“推し”のバンドなどの動画も併せて薦めて頂いたのですが、“ミリしら”の掟を破る羽目になってしまいますので敢えて避けました。申し訳ない

・“ミリしら”、という事で勝手にその動画に出演している方同士の関係性などを妄想しまくっており、実際の関係とは全く異なるかもしれないのですが、いかんせん“ミリしら”なのでそこんとこは目を瞑って頂きたいです。いわゆる「エアプ」、「何でも許せるひと向け」という事で……。

 

というわけで、スタートです!

 

(※今回は尺の都合上4本に絞っておりますが、大量におすすめ頂いたので気が向いたらご紹介しきれなかったものもTwitterなどでぶつぶつするかもしれません。泣く泣く大幅に削りましたが、全部拝見しているので…!)

 

 

■フォロワー推薦「見知らぬひとびとがわちゃわちゃしているミリしら動画」4選

 


【ガチDIY】家具がなさすぎる家に「ソファ」を手作りでプレゼントしました - YouTube

 

まずはこちらから! どうやら彼等はロックバンドらしいですね。バンドマン(兼YouTuber)がただただ黙々と楽しげにソファを手作りするだけの動画。シュール。て言うかソファって手作り出来るんですね。器用かよ。

どうやらメンバーの自宅に置くためのソファを手作りするというのが趣旨みたいなんですが、なんだその企画、仲良しか??? ソファ作ってもらった彼はベビーフェイスで最年少っぽく見えます。なんだかんだいじられたりツッコんだりしつつも可愛がられてそう。一瞬ボーカルかな? と思ったのですがこりゃベーシストですね。どうやらラウドロックバンドらしいし。逆にこの雰囲気でデスヴォイスぶちかましててもグッときますが……。

彼の家を拠点に動画を撮ってるってのもなかなかイイですよね。売れない時期、深夜2時に家の近くのガストに呼び出されて、ライブのお客さんが全然増えないから背に腹はかえられぬとYouTubeを始める事をメンバーに相談されたら、ドリンクバーのメロンソーダ片手に「場所どうすんの? みんなのとこお隣さんうるさいんじゃない? いーよウチ使いなよ、角部屋だし。楽しそうだし良いんじゃない?」って微笑みそうなタイプですね。意外と料理とかも上手かったりして。

一番ご飯の食べっぷりが良さそうな左端のホンワカした彼が一番有能なのもイイですね。癒し系って意外と常識人なんですよ。浅学ながらまだ曲は拝聴出来てないんですけど、癒し系の彼はドラマーっぽいですね。

仕切り役の彼はギタボっぽい。希少性の高いオトン系しっかり者キャラのギタボで、自分のポジションをよくわかってらっしゃいますね。引きも強い。手作りソファの外カバーなんてオチにもってこいやんけ。それにしてもあの質感の金サテン、なんだかんだ見慣れるとお洒落。

中綿係の彼は合理主義者のギタリストって感じがします。結果的に普通に使い勝手の良さそうなソファになってるのが一番面白いですね。あれだけ派手ならアー写も撮れるね!

 

 


もしイケボしか喋れない世界のYouTuberだったら【水溜りボンド&スカイピース】 - YouTube

 

一生懸命イケボで喋ろうとする人気YouTuberの皆さんが楽しそうな動画。こちらは水溜りボンドのオタクの友人に教えてもらった動画なので、水ボンさんだけは何となく存じ上げております(「ミリ」で言うなら2ミリ分ぐらいの前情報)。実際のところはわからないのですが、水ボンさんが一番歳下感ありますね。ちょっと控えめというか、慎ましいのが可愛い。皆さんイイ声で、「洋画研究会のアフレコ練習試合」って感じ。

おるたなの茶髪の彼が洋画研究会の部長。R-1ぐらんぷり出場経験があるがいいところで落ちてしまい大変落ちこんだ経験があるが、その時に励ましてくれた事をきっかけに相方さんと組んだという感じがします。なんだそのストーリー。

スカイピースはやっぱりアイドルオーラがあってイイですね! キラキラしてる。元サッカー部で休日に趣味の映画鑑賞をしていたところ映画館で洋画研究会の部長とたまたま遭遇して意気投合、ノリと勢いで転部しちゃった感じある。ちなみに水ボンさんは放送部と掛け持ちで部長がトミーさんの美声に惚れ込んでスカウトしに行くもカンタくんもついてきちゃった、でもカンタくんは邦画オタク、みたいな。

トミーさんは映画やアニメへの造詣が深いのかな? 先輩方(仮)のノリの良さについていけている感じがするんですが、カンタくんはイケボをあんまり理解出来てなさそうなのがチャーミングですね。愛嬌で最後まで乗り切ってる感じがする。ちょいちょいこっち見るの可愛い

 

 


爆笑と惨劇の『 最終兵器俺達 2021年 』 - YouTube

 

キヨさんだけ知ってる! 以前友人に「とある推しに似ている」と教えてもらったんですが、まじで声のトーンもちょっと似てるな……。

見た目からして個性爆発ヤべー奴軍団という感じでああ~YouTuberさんだ~!!! という気分なのですが(褒めてる)(伝われ)実は仕切り役のサングラスの彼が一番まじでヤべー奴の可能性すらありますね。やばい人たちの中にいる常識ありそうなひとってだいたい一番やばいじゃないですか。やばくあってほしい寧ろ。

で、問題の(?)キヨさんなんですけど。見た目に反してちょっとSっぽいところがイイですね。なんだかんだ一番モテそうなのはグラサンの彼なんですけど、好きな子とイイ感じになっても「キヨくんとお友達になりたいの♡」とか言われたらキヨさんに譲っちゃいそう。そういう、メンバーさえも絆しちゃいそうなチャーミングさがありますね、キヨさんには。

茶髪マッシュの彼はぽわぽわしてるけど意外と一番冷静。後ろのぬいぐるみとかは全部金髪の彼が買ってきそう。最初に紹介した夕闇さんのドラマー(仮)さんに近いものを感じます。料理企画なんかの時に買い出しとか付き合ってくれて、さりげなくレジ横のお菓子とかカゴに入れそう。でも荷物は持ってくれる。何だこのイメージ。

 

 


【ご報告】未来に向かって、別に泣いてないんだぜ - YouTube

 

しっかり者の元気なギャル、フェミニンな美少年、ハキハキしたリアル男の娘という謎ラインナップのトリオ。何そのTwitterでバズる漫画みたいなメインキャラクター。YouTube奥深いね、おじさんびっくりしちゃった。

最早“三姉妹”でもなんでもないのだけれど、しかも3人の歩んできた人生を僕は当然なんにも知らないわけだけれど、ラストにいくにつれてなんだかもう……段々泣けてくるんですよね……。

この胸を締め付ける感情は、はて親心かしらん? 最早高校を卒業してそれぞれの道を歩み始める三姉妹からの、親御さんへのビデオレターなんですよ。それにしてもこんなビデオレターを世界中に配信するって、結構な勇気なんじゃないかとすら思います。何故なら、こんなにもきらめきと瑞々しさに満ちた三姉妹の人生のターニングポイントが、世界中にばら撒かれる事になってしまうんですよ? こんなん全世界におとんやおかんやジジババが大量生産されてしまうじゃないですか……。

永遠だなんて重たい言葉、出来れば全世界のおとんおかんジジババ達に向かって言わないでほしい。「だって冷めてしまっちゃえば 其れすら嘘になるじゃない」と椎名林檎も歌っています。でも、でも……親心としては永遠に仲良くしていてほしいなと思ってしまいます。泣きすぎて最後笑いが止まらなくなってしまう3人の姿は、正直血の繋がった三姉妹よりも三姉妹だったように僕の目には見えました。エモ!!!

 

 

■実験結果:見知らぬひとびとがわちゃわちゃしている動画をミリしら状態で観たら、癒されるし新たな哲学も発見する

 

僕はこれらの動画を、風呂上がりのさっぱりした、ちょっと肩から気が抜けて脳味噌がふやけたような時間帯に観ていたのですが、結論から言って充分癒されました。狙い通り。いや、狙い以上に妄想が暴走していた気はする。自覚はある。

 

結論:見知らぬひとびとが仲睦まじげにしている姿を観続けると、たとえそのひとびとの事を一切知らなくてもちゃんと癒される

 

ところで皆さんから提供して頂いた動画を粗方観てみて思ったのですが、これらの動画と、先にご紹介させて頂いた推しバンドのわちゃわちゃしている動画に共通点があるような気がして。

 

それは、

動画に登場するひとびとが基本的に「名前のない関係性」であるという点です。

 

正確には「名前が多すぎて、最早ないに等しい」関係性かもしれませんね。グループ(バンド)メンバー、古い友達、ビジネスパートナー……色々な関係性を兼ねていて、最早彼等オリジナルの関係性なんじゃないかと思ったんです。

 

実は、今回敢えて“ミリしら”で動画を観る事にしたのは、それをより強く感じるためだったりもします。彼等の真の関係性を知らない事によって先入観を消し、最初にカテゴライズ/ラベリングせずに彼等のありのままを受け止め、関係性を勝手に妄想するためです。

 

妄想というものには、そもそも自分の中にある感情がどうしても投影されてしまうものです。たとえ僕のような陰キャでオタクでも、きっと人生の中で感じた事があるはずです。子供の頃友達と駆け回った線路沿いの夕陽や、才能ある絵描きのフォロワーへの憧れと嫉妬……名前の付けられない関係性や経験から生まれる、カテゴライズ出来ない感情。

僕達は、名前のない関係性や名前のない感情にこそ惹かれ、自己投影するのかもしれません。

 

人間はかねてより、色々なものに名前をつけてカテゴライズしてきました。男女が少し仲良くしてたらやれ「恋愛、結婚」、男男でも少し仲良くしてたらそら「BL」。愛し合うふたりの間にある感情はそんな売れないハーレクインや昔の月9、帯にさんずいのついた漢字が溢れまくってるBL小説みたいなカテゴライズ/ラベリング可能な単純明快な想いじゃなくって、もっと微妙なグラデーションを描いた名状し難い関係性なのかもしれないと言うのに。

 

わかりやすく名前のつけられた関係性や感情が何度も再生産されるこの世界で、名前のない関係性を妄想出来る豊かな心は失いたくないものだなあと思った実験でした。

 

 

 

 

■補足情報

 

あ!

忘れてました!

 

まだ残ってたんですよ、とびきり「オリジナル」でファンキーな「名前のない関係性」のひとびとにわちゃわちゃが!!!

 

じゃーん!!!

 

ロックバンド・HAUSNAILS活動報告 - Togetter

硫酸ピッチ!β〜ギターボーカル源壱将バンド生活記録〜|Henko RECORDS|note

 

女体化する宇宙人のベースボーカルと陰陽師のギタリストと魔法少女(♂)に変身出来るドラマーとクソショボ超能力者のギターボーカルの4人組バンドが繰り広げるドタバタ青春群像劇、『硫酸ピッチ』シリーズ~!!!!!!!!!(※小説です)

 

なんかクソ長番宣みたいになってしまい申し訳ございませんが、店主イガラシ、「架空のバンドマンが所属する架空の音楽レーベル」偏光レコードの代表代理も務めております。

こちらでは架空のロックバンドのギターボーカルがバンドメンバーとの間で生じた日常の中の事件を『硫酸ピッチ』と冠したシリーズとして時たま綴っており、「名前のない関係性」を感じられるような内容になっているかなと思っております。

 

いや、正直これだけじゃ何を言っているのかわからねえと思うが、

 

「女体化する宇宙人のベースボーカルと陰陽師のギタリストと魔法少女(♂)に変身出来るドラマーとクソショボ超能力者のギターボーカルの4人組バンド」

 

この字面に少しでもオモロを感じ、気になって頂けましたら是非ともご一読を……! 多分近々続きも書きます!多分!!!

 

まじで前置きの長いクソ長番宣だな!!!テレビ〇京の青汁のコマーシャルかよ!!!!!!

 

 

 

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パッチリ二重のビレッジマンズストア荒金、リョクシャカと秋山黄色を案じるKEYTALK巨匠、Plastic Tree有村が日没地区でたい焼き捕獲……どっこい生きてる通信(5月16日付)

■荒金祐太朗(ビレッジマンズストア)、誕生日迎えたドラム坂野充に謎の報告「左目だけパッチリ二重に」

5月7日に30歳の誕生日を迎えたビレッジマンズストアの荒金祐太朗(Gt)が、同じく5月に誕生日を迎えたメンバーの坂野充(Dr)へ、坂野の誕生日当日である12日にTwitterにて謎のメッセージを送っている事が確認されました。

このメッセージを受け、坂野は「パッチリ二重の荒金見たいんだが」と応じています。

 

偏好文庫では、引き続き荒金のチャームポイントである切れ長の目がパッチリ二重に変化する瞬間を捉えるべく、見守り続ける所存です。

 

寺中友将KEYTALK)、フェスで共演の緑黄色社会と秋山黄色の身を案じる「スタッフさん絶対わざと」

5月の連休中、『VIVA LA ROCK』『JAPAN JAM 2021』といったロックフェスに出場したKEYTALKの“巨匠”こと寺中友将(Vo/Gt)が、同フェスにて共演したバンド・緑黄色社会とシンガーソングライターの秋山黄色の楽屋が隣接している事から2組の身を案じる投稿をしました。


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同投稿に対し、「これはわざとですね」「絶対戸惑いますね」などのコメントが寄せられています。

尚、寺中も今月5月に33歳の誕生日を迎え、Twitterにて抱負を語っています。

 

偏好文庫では、引き続き寺中の無限大な活躍を見守っていく所存です。

 

■有村竜太朗(Plastic Tree)、日没地区でたい焼きを捕獲。5月1日には恒例のアレも実施

5月8日、Plastic Treeの有村竜太朗(Vo/Gt)が、本日16日にZepp Tokyoにて行われたライブ『Peep Plastic Partition#8トレモロ』のリハーサルに向かう道中でたい焼きを捕獲。自身のソロ楽曲『日没地区』をもじり、Twitterにて報告しました。

有村が捕獲したたい焼きは羽付きのものとなっており、希少価値の高い天然ものと考えられます。

尚、毎年5月1日に有村が個人的に行っている、Plastic Treeの楽曲『May Day』をもじった通称「May Dayチャレンジ」は今年も無事実施された模様。例年通り、多くのファンから「Day」のレスポンスが集まったようです。

 

偏好文庫では、引き続き有村の謎めいた日常を見守っていく所存です。

 

 

 

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