偏好文庫-「好き」を解釈し続けるメディア-

いろんな“好き”を愛するための(ひとり)メディア、偏好文庫です

感想文:映画『キャラクター』:創作者の暴力性と死ぬほど可愛いオム・ファタル

■前振り

話題の漫画、『ルックバック』を読んだ。
僕が読んだ時には既に修正後の状態になっていたので、件の各所で盛り上がっている修正前の状態は生憎確認出来なかったのだけれど、それでも濃密で、ペーソスがあって、メッセージも濃くて、切なさと諦めにも似た希望を感じられる素敵な作品だったので、僕としては決して「修正したら元々の良さが失われる!」だなんていう言説を支持する気はしないな、と思っている。もしかしたら修正前の状態の方がもっと素晴らしい仕上がりだったのかもしれないけれど、修正後も傑作である事に変わりはないんだから、これ以上傷つくひとが増える前に修正を加えたのは英断と言って差し支えないんじゃないですかね。

それよりも、別の部分が気になった。
これは、僕が尊敬するとある作家さんもこの作品に対する感想として仰っていた事なのだけれど、『ルックバック』は皆さんもご存知の通り(?)とある実際に起こった事件を題材にした作品だ、とされている。その割には、何のためらいもなく前置きもなく、“そのシーン”まで一直線に物語が進んでしまうのだ。
そもそも修正騒動だって、実在の事件を題材としているからこそ生じたものだ。
実際に起こった事件を想起させる作品なのであれば、物語を始める前に注意書きを入れるなど、ワンクッション入れるべきなのでは、と思う。作者に言うのはお門違いかもしれない。編集者の仕事なのかもしれないが、いずれにせよ、だ。
素敵な作品だからこそそう思う。ただでさえ、あれだけ“大きくて衝撃的な”事件だったのだから、直接的には無関係の人間でも心に傷を負ってしまっていて、その事件関連の話を耳にするだけでもつらくなってしまうというひとはきっと多いはずだ。かく言う僕も、今でこそ少しは癒えたが、当時はテレビでニュースを観るのさえ怖かった。
津波の映像がテレビで流される前にだって、画面が真っ暗になって白抜きでアナウンスが挿入される。もう10年も経っている出来事だって未だにそうなのだ。
まだ記憶に新しいような実在の事件を創作の題材にするだなんて、相当取り扱いに神経を使わないと、そこらじゅうが血の海になってしまう。

■映画『キャラクター』がめちゃめちゃ面白かった

突然話題が変わりますが、そういう事です。いや、めちゃめちゃ面白かった。何様という感じだが、久しぶりに心底好きすぎる邦画に出会えたという気分である。おいらハマりこみすぎて劇中資料とか衣装の展示会まで行ったもん。


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映画自体はもう公開が終わりかけている状態なのだけれど――題材が題材だから、ちょっとニッチ過ぎてあまり公開期間は長くなかったみたい――追々円盤が出たら少しでも多くのひとに僕と一緒に狂ってほしいので、ここにクソ長感想を綴っておこうと思う。いちおう物語の核心には触れないようにしておくつもりなので読んだ後でも本編を楽しんで頂けるだろうとは思うが、結構ネタバレしているのでそこだけご注意だ。

あらすじとしては、

主人公であるお人好しで凡庸な漫画家志望の青年・山城くんが渾身の力作を漫画誌の編集者に手酷くダメ出しされ、アシスタントとして師事している漫画家の先生(ちょっとパワハラ気味)のもとも辞めてそろそろ夢を諦めまともな仕事に就くか……と失意のどん底のなか、最後の仕事としてパワハラ先生の指示でスケッチに出かけた住宅街のとある立派なお家の中でとんでもねえ殺人現場に遭遇!
そこで彼は世にも不気味で怖気がする程美しい殺人鬼・両角と出会い、あまりの蠱惑的さにうっかり彼をモデルにした殺人鬼が出てくる漫画を執筆。それが大当たりして大ブレイク漫画家として一躍脚光を浴びるが、そんなある日彼のもとにあの日の殺人鬼が再び現れてさあ大変!
殺人鬼「ねぇ先生。ぼく、先生の作品、リアルに再現しておきました(ニッコリ)」
その後、山城の描いた漫画にそっくりな殺人事件が次々に発生するようになって……!?

というような感じのお話である。
ご想像の通り結構エグいサイコサスペンスだ。死体は血まみれだし山城くんが遭遇した殺人現場は映画冒頭にも関わらず血の海だし、いちおうPG12なのだけれど多分R15ぐらいにはした方が良いんじゃねえかと思うぐらいにはグロい。あらすじもこんなんだからバリバリのアングラ映画みたいに思われるかもだが、実はこの映画はかなりのスター映画でもある。

知ってる人も多分少なくないと思うけれど、主演は菅田将暉だし小栗旬高畑充希ちゃん、中村獅童先生と最近の日本映画界を代表するメンツが勢ぞろい。そこに加えて、我々の界隈でかなり話題になったのはなんたって深瀬くんだ。そう、みんな大好き(?)SEKAI NO OWARIのボーカルの深瀬くん。彼が初めて演技に本格的に挑戦する、というビッグニュースは僕のTLを猛烈な勢いで駆け抜けていった。
だって、あの深瀬くんが殺人鬼の役だ。オタクの妄想でもそんなにぶっ飛んでねえぜ。しかしこのぶったまげたキャスティングも決してただの話題作りではなかった……というような話はまぁ、もう少し後で詳しく話そうと思う。

スタイリッシュな映像に、非の打ち所がないぐらい滑らかな展開で且つ劇的な脚本。数秒後に何が起こるかわからないジェットコースターみたいな勢いと、長編漫画を何十巻も一気読みしたみたいな疲労感を覚える緻密さが隣り合っていてとにかく面白かった。音楽もスタイリッシュでカッコイイと思ったら、藤井風くんの曲もプロデュースしているようなひとが担当してた。お洒落。

一方で、この映画はやっぱりアングラサブカルサイコサスペンスでもある。やたら暗いのに所々彩度が高く、じっとりとした湿り気を感じる映像の質感もさることながら、主人公格にある山城と両角というふたりの男の間に漂う空気もどことなく淫靡で、スタームービーに抱いちゃイケナイ類のドキドキ感を否めない。しかも作中に登場する主人公の描く漫画の作画は『亜獣譚』や『たびしカワラん!!』などの作者の江野スミ先生、主人公の師匠のパワハラ先生が描いている漫画の作画はあの古屋兎丸先生が担当している。なんだかお耽美。実はこの映画は原作がなくオリジナル脚本なのだが、原作漫画がもしもあるならその作者はヴァニラ画廊で原画展やった事あるタイプだと思う。

そんな、久しぶりに出会えた大好きな映画『キャラクター』。大好きだからこそ、僕にはどうしても言いたい事がある。
「言いたい事がある」と言っても、別に制作サイドにイチャモンをつけたいわけではない。僕が言いたいことがあるのは、主人公――山城圭吾に対してだ。

■おい、山城。“創作者の暴力性”を自覚しろ

山城は、“やりたい事”と“出来る事”の間に生じる乖離=“アイデンティティの乖離”に苦しむ男だ。そもそも彼が漫画家として芽が出ないのは、やりたい事=ホラーやサスペンスの作品を描きたいのに、お人好しが過ぎて魅力的な悪役を描けないからだとされている。個人的には人が好いくせにホラーやサスペンスを嗜好しており、しかも江野スミの絵柄で超絶緻密な漫画を描いている時点で彼の事を単なる“お人好し”とは思えないのだが……現代において“お人好し”と“凡庸”は紙一重なので、まあそういう事なんだろう。
創作をするひとにとって、作りたい作品の傾向はイコール自分のアイデンティティとも言える。そのためにパワハラ気味な師匠にも師事しているというのに、彼は綺麗な絵は描けても自分の理想とする作品で食べていく事は叶わない。彼の理想とするアイデンティティと彼を取り巻く人物達の中にある彼のアイデンティティの中には決定的な乖離があって、これは彼にとっては致命的だ。

そんなこんなで、彼は失意の底でたまたま遭遇してしまった殺人事件を、ほぼそのまま漫画の題材にしてしまうのであった。そしてこれは、ひとりの漫画オタクの刑事(オトコマエ、元暴走族上がり、小栗旬)によって「あれ? この漫画、あの事件にそっくりじゃね?」と発見されてしまう。

僕は言いたい。刑事にわかるぐらい明確にそのまま漫画に起こしちゃあかんやろ、と。

僕は個人的に小説を書いている。ここで引用する程でもない馬鹿馬鹿しい小品だがそれなりにガチの本気で書いている。それにいちおうプロのライターなのでお金をもらって文章を書く事も多いのだが、仕事やそれ以外で文章を書いていると、漫画や文章に限らず映像作品や芸術作品など、何かを作る(創る)ひとはプロであれアマチュアであれ、ある種の暴力性を持っていると感じることが多いのだ。
それは、その作品を観たり読んだりしてくれるひとから作品に触れている間だけ時間を奪う力であったり、そのひとの感情を多かれ少なかれ左右する力であったり、特に漫画や小説の場合はその作品に登場する人物の生殺与奪の権利を握る事が出来る権利だったりする。場合によっては、その作品を目にするひとの人生すら左右してしまう可能性だってあるのだ。
だから僕は山城に言いたい。刑事にもバレるような演出にしてしまうだなんて、現実の事件を取り扱うにはあまりに短絡的だろ!!! と。

さっき『ルックバック』の話を少ししたが、これもそういう事なのだ。「これは実在の事件を題材にしています」と、ワンクッション置いてほしかったなと僕が思ったのは、とても素敵な作品なのに、その“創作者の暴力性”を意識していないと感じてしまったからだ。修正騒動が生じたのだって結局そのせいなんじゃないか?

山城のケースも同じだ。もしも刑事や両角でなく、最初に殺された4人家族の遺族がたまたま偶然彼の作品を見つけでもしたらどうしたのだろうか。それはそれで別の悲劇が生じる可能性だってあるだろう。せめて3人家族にするとか、そもそも一般家庭という事件の舞台を変えるとか、現場で出会った例の殺人鬼(両角)のキャラデザだけを利用するとか、なんか他にやり方あったんじゃないのか。漫画家志望の想像力があれば、そっくりそのまま参考にしなくたってその時の自分の恐怖や感情を作品に投影出来るはずなのに。それって、漫画家としての怠慢じゃないのか?

でも別に、僕も山城先生が嫌いなわけじゃ決してない。寧ろ親近感すら抱いている。僕ももうアラサーだってのに売れないライターで、出来る事とやりたい事の間に生じるアイデンティティの乖離のしんどさは痛いほどに理解出来るし。やっぱり自分には才能がないのか、誰にも求められないという事は漫画家としての己のアイデンティティを失うという事だ、それはとてもとても苦しい。
でも、いや、だからこそ、“実在の事件”という他人のアイデアを、他人である刑事にバレてしまうような形で参考にしてしまう方が(しかもあろうことかそれでブレイクしてしまうだなんて)、余程プライドが傷つくんじゃないか。
彼は漫画を描く理由として、「漫画の中の世界ではヒーローが勝って悪人が滅びる。間違ったことは間違っているとはっきり言えるじゃないですか」というような事を言っていた(※意訳で申し訳ない)。人の好い彼はきっと、「間違ったことは間違っていると」はっきり言えない人生だったんだろう。彼の漫画にはしっかりとした志があるのだ。でも、だったらもっと慎重にやってくれ、と思う。

ただ、一方で山城が件の殺人現場で遭遇した美しい殺人鬼――両角(と名乗る男)を自作のキャラクターのモデルにした理由はとてもよくわかる。何故なら彼はとても魅力的だからだ。ただ顔かたちが美しいだとか、悪役として不気味だとか、そういうものではない。多分だけれど――両角との出会いは、山城にとってある種の一目惚れに近いんじゃないかと思う。だから山城は取り調べの刑事にも、現場で彼に出会った事を頑なに言わなかったのだ。取り調べから解放されて家に帰ってから、一緒に暮らしている最愛の彼女とすらあまり口を利きたがらなかったのもそのせいだ。東京事変の『修羅場』の歌詞に「何方に会えば記憶を奪取まれよう/喉を使えば貴方が零れ出で溢れよう」というフレーズがあるが、この時の山城の気持ちはこれだったんじゃないか?

脳味噌いっぱいに詰まった両角と殺人現場の記憶を取りこぼさないようにするかのような虚ろな瞳のまま、彼は作業部屋に籠り、取り憑かれたような勢いで完成させる。彼の運命を大きく変える事になる、件の漫画を。

■山城を魅了した死ぬほど可愛い殺人犯、両角(とそれを完璧に演じあげた深瀬くん)について

アイデンティティの乖離に悩む山城に対して、彼を苦しめる不気味な殺人鬼――両角は、アイデンティティが“そもそもない”人物だ。

アイデンティティがそもそもない”、そんな人間は実在し得るのかという問いには、「決定的なネタバレになるので多くは語れないが、このシナリオなら充分あり得る」としか答えられない。それぐらい彼の生い立ち、アイデンティティを失うに至る理由は個人的にとても印象的で、画期的だった。少なくとも僕は、彼のような理由で人を殺すフィクションの殺人鬼は初めて目にした。それぐらいにはこの物語の魅力の根源を成しているし、両角という人物自身の魅力の根源でもあると言えるだろう。彼の人格が歪んでしまった理由はとても理屈が通っており、不思議なリアリティがあるように思える。とりあえずサラッと言えるとこだけ言うとカルト村とか好きなひとにはめちゃ刺さると思います。

つまり、両角はその“アイデンティティのなさ”が、そのまま彼が殺人を犯す理由に直結しているのだ。

サイコパスや連続殺人鬼というと刃物を舌で舐めたり常にニヒルな笑みを浮かべていたり主人公に向かって高笑いして見せたりするようなエキセントリックなキャラクターをイメージするひとが多いかと思うのだけれど、それは多くのひとが想像する“フィクションの殺人鬼”がいわゆる快楽殺人犯や、名声や自己承認欲求の充足など何かしらの見返りを求めて殺人を犯す犯罪者だからだろう。対して両角は殺人に快楽など見出していなければ、形として目に見えるような報酬も求めていない。彼は、殺人によって己の存在を他人に“認知される事”に悦びを見出しているのだ。
アイデンティティを持たない彼をあの殺人現場で目撃した山城が彼をモデルにしてキャラクターを作った事により、彼は生まれて初めて、アイデンティティを手に入れた事になる。山城の描く漫画に登場する殺人鬼、「ダガー」としてのアイデンティティを、だ。だから彼は“彼自身”である殺人鬼の行動をなぞったり、先回りして物語を紡ぐような行動へ出てしまうのだ。生まれてから今まで、手にした事がなかったアイデンティティを失わないために。彼の凶行は異常ではあるが、その理由は実に理屈が通っており、哀しい程に切実だ。

また、両角にはアイデンティティと同じく、いわゆる倫理観や道徳観のようなものも欠落しているように思える。そもそも彼がアイデンティティを奪われたきっかけとなった出来事によって、彼は倫理観や道徳観を育まれる情操教育の場も失ってしまったのかもしれない。彼が山城と出会うきっかけになった最初の殺人はあくまでも彼自身のみの意思で行われた凶行なわけだが、そこにあったのは、彼が“アイデンティティを奪われたきっかけ”に深く関わっている「4人家族」という存在への恨み……という程激しい感情ではなかったんじゃないかと僕は思っている。
両角の殺人衝動の根源は、怒りや恨みのようなありきたりな殺人犯のそれではない。寂しさや悲しみのような、もっと無邪気で根源的なものだ。そこに加えて、元々油絵を描いていた彼の美意識や生まれ持った狂気が重なったことで、あの凶悪な殺人現場が完成したのかもしれない。
そもそも両角には常人の倫理観や道徳観がないのだから、人間の命の重さをよくわかっていないのだろう。子供が罪のない昆虫の手足を残酷に引きちぎったり、羽根をむしり取ったりするように、彼は人を殺すんじゃないだろうか。

そう、そこだ。そこにこそ山城をも魅了した彼の魅力と不気味さがある。
両角は子供のように無邪気だ。しかしその肉体は30代の妙齢の美しい大人の男性である。彼という存在はどこまでもアンバランスで、グラグラと揺れる土台の上にギリギリの状態で積み上げられた石のようなものだ。そんなアンバランスさに、魅了されてしまったんじゃないですかね山城先生。違います?

両角は訳あって他人の戸籍を使って生活している。だから戸籍上では28歳なのだが、劇中に登場するとある新聞記事の日付から察するに彼の実年齢は30代半ばぐらいなんじゃないかとも言われている。因みにだが、彼を演じた件の深瀬くんも当時34歳だったらしい。信じられん。

両角は美少年のような幼く美しい相貌に常に静かな笑みを浮かべ、他人に警戒させない柔らかな雰囲気を纏い、美しく透き通った天使のような声で喋る。柔らかそうな髪はピンク色に染められ、細く小柄な体躯は緑色のジャージ姿。意外と礼儀正しいし普通にしている分には単なる不思議ちゃんだが“不思議ちゃん”とお呼びするにはお兄さんすぎるし、時々会話が絶妙に噛み合わないし、目は虚ろ。確かに端的にも不気味っちゃあ不気味なのだが、しかしその不気味さはフィクションによく登場する殺人鬼やサイコパス、犯罪者のステレオタイプな“不気味さ”とは一線を画していて、浮世離れしているのに隣に住んでいそうな、絶妙なリアリティがある。それがまた更に不気味さを加速させている。

そもそも両角という人物のキャラクターデザインはなかなか決まらなかったそうで、構想の段階では彼は輪郭のない幻影のような存在だった、らしい。元々セカオワのファンだったプロデューサーが深瀬くんを抜擢したことにより、あの絶妙なキャラクターデザインが完成したのだという。深瀬くんの髪色が当時たまたまピンクだったからピンク色の髪になったし、深瀬くん自身が趣味の油絵を描く時にお気に入りの緑のジャージを着ていて、絵の具のついた手をそのジャージで拭いてしまう、というエピソードからあの衣裳も決まったわけで、つまり、決して当て書きではないにも関わらず、両角のあの姿は深瀬くんが演じない限りありえなかった。
アイデンティティがない”という危うい土台の上に成り立っていた両角という人格は、深瀬慧という肉体を得る事で遂に完成形になったのだ。

映画の中の物語において不気味な影のような存在である両角は、物語外の制作段階においてももとより輪郭のない朧気な存在だった。彼を形作るべく集められた虚ろな要素達がうっかりアンバランスに噛み合ってしまい、微妙なバランス感のまま完成形に“なってしまった”のだ。まるでキメラか鬼子のようで、まさに彼という存在を象徴しているように思える。

その危うさは、彼の所作ひとつひとつにもよく現れている。初めて山城が彼に遭遇したあのシーンの、油の切れた機械の部品が軋むかのような首の動き、深い湖の水面のような空虚を押し固めて作られた瞳の色。彼自ら山城にエンカウントした酒場での、カウンターテーブル沿いに山城の手を握る指の動き、耳元で囁く時の、まるでファム・ファタルのような表情、甘く柔らかな声。山城が幻惑されてしまう気持ちも正直わかるぐらい、人外じみた壮絶な妖艶さがある。それもやはり深瀬慧というひとの表現力の賜物でもあるわけで、単なる話題作りのためのキャスティングではない事はひと目観ただけでわかるだろう。

本編とは関係ないが、現在映画を観たひとの間でTwitterに両角のファンアートが出回り続けているのも興味深い。元々セカオワのファンアートを描いていたファンだけでなく色々なジャンルの絵描きの方が彼を描いてはネットに放流している様子を見ていると、なんだか貞子や伽椰子のようなミームになりつつあるような気すらしてくる。これは流石に言い過ぎかもしれないが、こういう作品を巡る周辺の現象まで込みで『キャラクター』という作品の一環になっているようでとても面白い。

■“あのシーン”の山城の笑顔の理由と残酷な結末について

一旦話を最初に触れた『ルックバック』に戻そうと思う。
視点人物の女の子(後半は大人の売れっ子漫画家になっている)は、少し傲慢な性格をしている。これは特に物語の冒頭の方では思春期特有のものもあるのかもしれないが、彼女の傲慢さも、もしかしたら先程触れた山城が持っている“創作者の暴力性”によるものなのかもしれないと思う。
彼女の場合は小学生の時点で既に勉強も運動も出来る子で、そのうえ学年新聞に漫画を寄稿していた。だからクラスメイトにはかなり一目置かれている。つまり彼女は、幼いうちから人の心を左右する力を手にしてしまっていたのだ。これは簡単に言えば、「調子に乗りやすい状況にあった」と言える。

さっきも少し話したが――彼女にも、そして山城にも、そしてもしかしたらこれを読んでくれているあなたにも。創作者には他人の時間を奪い、他人の人生を左右する力がある。それが“創作者の暴力性”だ。その創作物がたとえどんなにクソな駄作であったとしても、読んだ相手に『時間を無駄にした!』と思わせた時点で、創作者はそのひとから通り魔のように時間を奪う両刃の剣を持っているという事になる。
“狂気”や“暴力性”なんて、殺人みたいないわゆる常識や法律や常軌から逸した行動でしか表現されないものでは決してない。文章を書いたり漫画を描いたり映像を撮ったりというような、一見健康的な創作活動と呼ばれる行為でも、その内側に狂気的な暴力性が秘められている場合が往々にしてある。その狂気がいくところまで行けば――大袈裟な言い方をすると、創作者は神にもなれる。だって、他人の心を左右し、時間を奪い、更には作品の中に登場人物(キャラクター)という新たな命を生み出し、その生殺与奪の権利までをも左右することができるのだから。

映画『キャラクター』のクライマックスでは、とある漫画家らしい方法で両角の凶行を止めようとする山城のもとに、凶器を携えた両角がやってくる。山城の自宅で彼等は遂に一騎打ちになるのだが、そのシーンのなんたる凄惨なこと。男ふたりが差し違える様が描かれているのだが、しかしそこにはカッコイイアクションなどは一切なく、ただただ痛々しく目を覆いたくなるような姿しか映らない。しかし、それがかえって美しく見えるのが不思議だ。
あのシーンで、山城は両角に馬乗りになってとどめを刺そうとする。その時、彼はそれまで見た事もないような、狂気に満ちた笑顔を浮かべるのだ。

目を見開き、口を真横にぐっと伸ばした、まるで人相が変わってしまったかのような、人外じみた狂気の笑顔。

普通ならかなり不自然に思えるタイミングで繰り出された彼の笑顔については色々な意見が交わされているが、僕の目にはあの時の山城の笑顔は、悦楽を感じている笑顔のように見えた。そう、創造主の悦楽だ。

言うならば、両角は彼の作品により最も人生を左右され、しまいには“彼の創作物”そのものと化してしまった人物だ。だから正直、両角は山城の“創作者の暴力性”による最大の被害者であると言えるし、山城がもう少し己の暴力性に自覚的になって漫画を書いていれば、両角が殺人鬼になってしまう事も防げたかもしれない、とすら僕は思っている。
しかし狂ってしまったものは致し方ない。覆水盆に返らず、両角にとってこの時既に山城先生は創造主、神様と同義だ。神の使い、と言っても良いかもしれない。山城は件のシーンで、自分が“生み出してしまった”最悪のキメラである両角に、ピリオドを自ら打とうとした。それは究極の支配だ。少しSMじみてくるが、両角みたいな美しく不気味で凶悪な存在を支配出来るのは、どれ程の快感なのだろうと思う。

そして、そんな山城の笑顔を目にした両角もまた、笑みを浮かべる。その青白く血に濡れたかんばせが見せるのは、まるで憑き物が落ちたような、宗教画の天使のような、怖い程に穏やかで、柔らかい笑顔だ。そのまま安らかな眠りについてしまいそうなあの笑顔は、創造主にピリオドを打たれる事によって、フィクションの世界の中で自分自身という存在が“完結”する事を喜ぶ笑顔なのではないか。
狂気の創造主と、人間存在(キャラクター)としての己が完結する事を悟った死の天使が対峙するあのシーン。その、まるでカラヴァッジオの宗教画のようなグロテスクな美しさは、安いラブストーリーの濡れ場なんかよりも余程エロチックで息が止まりそうになった。

しかし、物語はそこで終わらない。この映画の真の残酷性は、血まみれのアクションシーンなどには存在していない。

ラストシーン、両角は凶悪で美しい殺人鬼としてのアイデンティティをすっかり奪われた姿を見せる。モノトーンの服装が多い他の登場人物に比べ、異様なまでにカラフルな容姿をしていた彼が、このシーンでは枯れた花のように色彩を失っている。淡いピンクに染めていた髪は色が抜け、簡素なカッターシャツとスラックスに身を包み、傷だらけの顔で虚ろな目をしている。その姿はまるで、美しく狂気的な虚構の世界から残酷な現実へ引きずり降ろされた堕天使のようで、それでも尚無垢で美しい相貌がただただ哀しかった。
普通、あれ程までの残虐な一騎打ちの果てにふたりの男が辿り着くのは互いに破滅への一途だ。今までどれ程の膨大な数の男ふたりが刺し違え、その屍を戦場に転がしてきたと思っているんだ。しかし山城と両角が辿る結末は違う。明確に語るのは流石に避けておくが、少なくとも彼等は死ななかった。寧ろ、死んでおいた方が多分フィクションとしては美しく、彼等にとっても救いであったとすら思える。

この、残酷なまでにリアルな結末は「我々は厳しい現実を生きていかなければならない」という事実を僕達にまざまざと突きつけてくる。脚本家の長崎氏はもともと小説家で、かの大友克洋の漫画原作なども手がけている大物なのだけれど、もしかしたら「虚構の創作はあくまでも現実逃避のツールである」という自己批評が込められているのかもしれない。
両角を“美しき異常者”のままにしない終わらせ方は勿論、劇中とある人物に手酷く痛めつけられたとある人物が傷つき、致命的な傷を負う様が執拗なまでに描き続けられていたのも、痛く苦しく一筋縄ではいかない“現実”を、映画という虚構の中に出来るだけリアルに描こうという強い意志の表れなのかもしれない。“漫画”という虚構を重要なテーマやモチーフとしている物語だからこそ、「劇中の漫画以外は全て“現実”として描いていますよ」と強調するためにあのような残酷な表現が貫かれていたんじゃないか。

かの偉大なシェイクスピアの戯曲『お気に召すまま』の、有名すぎるあの一節を思い出す。「世界はこれひとつの舞台、人間は男も女もこれすべて役者にすぎぬ」。もし仮にあの映画の世界を“現実”と仮定するならば、神とかいう存在するのかしないのかもわからない創作者が作りたもうた我々人間という名の役者(キャラクター)を象徴しているのが、紛れもない両角なんじゃないかとすら思う。どの登場人物よりも浮世離れしているのに、生活者として必要なものを予めすべて奪われ、その代わりというには重すぎる程の狂気と美貌を一方的に与えられ、神の使いとも言える山城と引き合わされてしまった彼は、正に“創作者の暴力性”に無自覚な創作者によって翻弄され蹂躙される、人間という名の役者(キャラクター)そのもののように見える。
彼が執着した「幸せな四人家族」は紛れもなく現実世界の幸せの象徴のひとつであり、彼だけでなく我々生活者は「幸せな四人家族」に近しい“理想像”とやらに多かれ少なかれ縛られて生きている。だから今やファンタジーでしかないサザエさんが未だに人気のアニメであり続けているし、結婚や出産、育児、出世みたいなものが我々の生活には何処までも付きまとう。
4人家族に限らず、家族は最小単位の社会だ。家族であれ、もっと大きな社会であれ、その中で我々は役者となってロール=キャラクターを演じて生きている。そうしないと、安心して生活できないから。突然奪い、突然与え、圧倒的な見えない力で突然我々を狂わせてこようとする神とかいうヤツに目をつけられないように、僕達は何かを演じ、アイデンティティを手に入れる。それは丁度、両角が殺人鬼という“キャラクター”を、全身全霊を賭けて必死に生きたように。

何かを演じ続ける事は時々、とてもつらい。他人から求められるものを演じるのは特に骨が折れるものだ。そんな時、自分が本当に“そうなりたい”アイデンティティを――たとえ実際には手に入れる事が出来ないとしても――ひと時でも手に入れる事が出来る方法が実はある。それは何か。
創作だ。

さっき触れた創作者の傲慢さ、“創作者の暴力性”。それを僕はここまで散々危険なものであるかのように捉えてきたが、一方で、この暴力性は我々が生きていくうえでの希望にもなりうるとも思っている。何故なら、観る者の人生の時間を奪い、人生のあり方を大きく左右出来るという事は、そのパワーがもしも良い方向へ作用すれば――救う、とまで言うとそれも傲慢に聞こえるだろうが、その創作物に触れたひとや創作をするひとを、たとえ一時的なものであったとしても、苦しい現実から引きずり出す事が出来るからだ。漫画も映画も小説も音楽も、今自分が現実世界で置かれている状況とはまったく違う物語の世界へ連れて行ってくれる魔法のようなものになりうるからだ。たとえそれが傍目から見れば現実逃避であったとしても、人生の“希望”になりうる。エンターテインメントには、それだけの力があると、僕は思う。

人間は――あの両角でさえ、だ――結局“現実”から逃れられず、周囲から押し着せられる“理想像”に苦しめられ、自分が求めるアイデンティティとは違うキャラクターを無理矢理に演じる事を求められる。しかし、創作にはそこから一時的に人間を解き放つ力があるのだ。

両角の凶行を止めようとするシーンの山城は、冒頭の軽率さを手放し、創作者として、自分自身が持っている暴力性をきちんと自覚し、覚悟を決めたような頼もしさを感じる。まるで売れっ子になる前のようにボロボロの手でペンを握り、紙の原稿に向き合い、恋人にまっさきに原稿を読ませ、身ひとつで脅威へ立ち向かう。たとえ刺し違えたとて、正しい方向へ己の周囲の人々を、己自身の人生を、そして己が生み出してしまった“キメラ”を導こうとする。彼はこの時だけは、自分の持つ両刃の剣を“希望”として奮う決意を抱いていたのではないだろうか。
「漫画の中では間違ったことは間違っていると言えるじゃないですか」と語った彼の正義が、この時だけはやっと正しく働いたように思える。

この感想を読んでくれたあなたも、もしかしたら『こんな駄文を長々読ませやがって!』と今まさに思っているかもしれない。だとしたら大変申し訳ないが、しかし僕はこの映画を見て感じた事をここに書き留めておかずにはいられなかった。何故なら僕もまた、物書きという創作者だからだ。
たとえ己の暴力性を自覚しても尚創り続けてしまうのは、そこでしか手に入らない“希望”があるから。そうしていないと本当に、創作者としてのアイデンティティを見失ってしまうからだ。
だから僕達は今日も創る。伝えたい事と出来る事の間に生じるアイデンティティの乖離に苦しみながら、じりじりと身を削って紙やモニタに向き合い、「僕は誰だ」と己自身に問い続けながら、両刃の剣を性懲りもなく握り続ける。