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【2020年12月執筆】感想文:カツセマサヒコ『明け方の若者たち』:「エモい」を解釈する4つの断章

※この記事は2020年12月に店主イガラシのnoteにて公開された記事に加筆修正を加えたものとなっております。情報は記事執筆時点のものとなっておりますので、何卒ご了承ください。

 

■Attention

これは今年6月に刊行されたカツセマサヒコ氏による小説『明け方の若者たち』について、自意識を拗らせながらいわゆるアラサーまで生き長らえてしまった人間が気紛れに書いた長文です。僕は氏の大ファンで、刊行が決まった際に氏が運営している彼氏面でメッセージを送ってくださる公式LINEに長文メッセージを送り付け、たったひとことの返信に泣いてしまったぐらいなので、この長文を読んでくださった奇特なあなたにはなるべく氏の著書を読んでみたいと思ってもらいたいと思いながら書いていますが、どうしても物語の核心部分や肝になってくる部分に触れざるを得なかった点もあるので、いわゆるネタバレを避けたい方は本編をお読みになってからこちらの乱文に目を通してくださればと思います。それでは、よろしくどうぞ。

 



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■詞になるような甘い想い出

昔から本と同じぐらい音楽が好きだった。僕が子供の頃は丁度バンドブームの最中で、いまやすっかり大物になってしまったバンドが全盛期の人気を誇っていた。僕はテレビに齧り付くようにして音楽番組を観ていて、意味もわからずに難しい言葉の音楽を沢山覚えた。

最初に飛び込んでくるのはメロディやサウンドだけれど、最終的に刺さるのは詞が美しい曲だ。未だにCDを買えば必ず歌詞カードを読むし、サブスクを使っても歌詞サイトにアクセスしまくる。最初に話した通り、本を読むのが好きなせいかもしれないが、特に好きなのが物語を感じられる詞だ。イエモンの『JAM』や『バラ色の日々』は幼心に衝撃的だったし、大人になってから改めて聴いたキリンジの『エイリアンズ』や、ハイティーンになってから再会したPlastic Treeの『アローンアゲイン、ワンダフルワールド』は感動を通り越して琴線を蜂の巣にされた。

 

物語の始まりは、就職を控えた主人公が参加した飲み会の場面だ。内定者だけが集められ、“勝ち組飲み会”と称された不毛な宴の輪の中で、彼は「彼女」を見つける。ショートカットの似合う、ちょっとマニッシュだけれど華奢で儚げな女性。携帯を失くした「彼女」のために着信を鳴らしてあげた彼のもとに、飲み会を早々に退席してしまった「彼女」から、世界で一番美しくて世界で一番どうしようもない誘い文句がショートメッセージで届く。

 

「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」
 

ここまで呼んで僕はうっすらと気がついていたが、その次の場面、主人公が飲み会を抜け出して「彼女」に会いに行くその場面を読んで、僕はその気づきに確信を得た。ああ、この小説は“詞”だ。

明大前の駅近く、閑静な住宅街にある小さな公園。その空間のスケールに見合わない、大きなクジラの遊具の影に隠れた小さな滑り台の上に腰掛けた「彼女」。月明かりのもと浮かび上がるその細いシルエットが、「僕」に向かって何故か飲みかけのハイボールの缶を差し出す。自分は新しい缶を、小気味よい音を立てて開ける。ついさっき「この公園で元カノとキスしたな」なんて牽制した主人公に、「彼女」はこう切り返したばかりだ。「私、一度ここで、セックスしたことあるなぁ」

もう、“詞”じゃん。

これはもう個人差のあるものだから断言出来ないのだけれど、僕にとって詞や詩はロマンチックすぎてはいけないものだ。小説よりも言葉数に制限があるせいか、没入出来ずに目や耳が上滑りしてしまう。そこには程好い生活感が欲しくて、百年先も愛を誓われるよりも輝いたのは鏡でも太陽でもなくて君だと気づいたと歌われる方が断然ときめく。その鏡も王子様のおわす宮殿の金縁薔薇彫刻入りのやつじゃあ駄目で、電球の切れかけたワンルームの洗面所の、かろうじてシャワーヘッドが使えるシステムドレッサーのやつじゃないとロマンを感じない。そもそもが小説だって、たとえドラマや映画だって、いわゆるハーレクインみたいな選ばれし姫と王子しか踏み込めないようなサンクチュアリには反吐が出るタイプなのだ。ベタな月9なんて見れたもんじゃない。そういう奴なのだ。

「彼女」と主人公の想い出は常に、その点において、胸がいっぱいになる程に“詞”だった。

初めてのデートは下北沢の小劇場での観劇だった。ヴィレヴァンで待ち合わせて、あのジャングルのような店の中で、大のおとながふたりでかくれんぼの真似事をした。せっかくの夏の遠出、借りたレンタカーのキーを落として、行き場を失くしてちょっとした高級ホテルのスイートルームで一夜を過ごす羽目になってしまった。

「彼女」とした事を書き連ねただけなのに、僕みたいな逆張りオタクのサブカル野郎にはどうしたって刺さりまくる。この字面だけで逃れようもない程に、その辺の映画化話題作少女漫画なんかよりも、この世界に浸ってみたい、浸っていたいと思ってしまう。しかしカツセマサヒコというひとの綴る言葉は決して華美でも気障でもない。ごく何気ない言葉でその世界の解像度を爆裂に高め、現実のものとして僕達の目の前に再現してみせるのだ。

「相変わらず情報量が多い店内に目を慣らしながら進むと、ボサノヴァ風にアレンジされたスピッツの『ロビンソン』が小さなスピーカーから流れている。少し鼻にかかる歌声を響かせる女性ヴォーカルが、この店の雰囲気によく似合う。目線をおろすと、海外アニメのキャラクターみたいなキーホルダーがこちらを馬鹿にするように笑っていた。」
彼の手にかかればヴィレヴァンの店内の、全ての無機物が生きているかのように有機的に見えてくるあの“感じ”がこれ程までに的確に表現されてしまう。そして何よりその世界の中に息づく、「彼女」の存在が魅力的すぎた。

そう、何よりも「彼女」こそが、“詞”なのかもしれないとすら思う。

 

「彼女」は決していわゆる“女性らしい”ひとではない。大学を卒業後夢だったというアパレル関係の仕事に就いてひたむきに働く「彼女」はしっかり自分の世界を持っていて、少々理屈っぽく、デートに真っ黒な長いワンピースとキャップを身につけてやってきて、いつも飾り気のない使い込んだ黒いリュックを背負っている。少し歳上の彼女に主人公が敬語を使おうとすれば物凄い剣幕で怒り、お気に入りのコンビニやビールになかなかのこだわりを持っている。主人公がフジロックに行けない事を嘆いた時にはフェスは怖いし疲れるから嫌、好きなアーティストはワンマンで観ると言い放ち、めちゃくちゃな理屈で煮え切らない主人公を論破する。

「行ったことない場所の楽しさなんてさ、わかりっこなくない? じゃあ、わかった。こうしよう。あれは全部、ウソです! 例年の楽しそうなツイートは全部サクラが仕込んでいて、今年はフランツも来日しないし、ウルフルズは復活延期。OK GOもストレイテナーも出ないし、会場は大型の竜巻と台風に襲われて、空からカエルが降ってくる。フジロックほど最低な場所はないし、私たちが過ごす場所ほど、最高なところはないみたいだよ。すごくない?」
「彼女」の言葉はいつも甘くないし、時に気難しそうですらある。だけれど僕の目には「彼女」のその気難しさこそが魅力的に見えたし、愛おしくすらあった。ここまで書くとまるでいわゆる“強いオンナ”的なイメージを「彼女」に抱かせてしまうかもしれないが、前述したように彼女は真っ赤なヒールも履かないし、ルージュも塗らないし、エルメスのバッグも持ってなさそうだ。物語冒頭の“勝ち組飲み会”のシーンから一貫して、「彼女」はどちらかと言うと慎ましやかな雰囲気を持つ女性として描かれている。恋愛小説によく出てくる、“イイ女”のステレオタイプに「彼女」は当てはまらない。だからこそ僕は「彼女」を魅力的に思うし、主人公と一緒になって、安心して「彼女」に恋が出来た。

カツセマサヒコというひとはインターネットで「バズって」今があるひとだ。Twitterで短い恋愛小説のようなエモいツイートを投稿してそれが評価され、「タイムラインの王子様」なんて眩しい通り名まである作家である。優男もあくまで“オトコ”であり、そう考えるととても“男女”のお話に縁のあるひとのように思えるが、僕の目にはそうとは言いきれないように感じられる。

長編小説という舞台にその身を置いたカツセマサヒコというひとは、「男女」の物語ではなく、「人と人」の恋のお話を描いた。「彼女」のその、一見慎ましやかなのに芯が強く、自分自身の理屈を時に身勝手な程にはっきりと伝えてくるある種野性的なまでの凶暴性、それを覆い隠して和らげる知性とサブカル趣味、そこには年頃の女性のコケティッシュさだけでなく、少年のような瑞々しさも感じられるようで、「彼女」のそこが僕はとても好きだった。性別とかもうどうでもいい、「彼女」のような、気難しくて面白くて可愛らしくて時々妙に艶っぽい、ヤベーやつが自分の隣に確かに息づいている、その生命の煌めきにエロティシズムすら感じるのだ。

その、生命力に裏付けられたエロティシズムは多分だけれど、彼女がいわゆる“イイ女”のステレオタイプに収まっていないが故のものだ。Twitterは短い文章の中でどれだけわかりやすく命題に言及するかが求められる舞台だ。オタク構文にマクドのJK、おじさんLINE仕草、異世界転生……ウケるにはある種のステレオタイプに乗っからないといけない。そんな愉快な詩情のディストピアを主なフィールドとして闘い続けてきたカツセマサヒコというひとは、考えうる全てのステレオタイプをかなぐり捨て――ある種、いわゆる“サブカル野郎”的なステレオタイプは感じるけれど――それは「ミーハー」を公言する氏のチャームポイントだし、僕も間違いなく逃れようもないサブカルクソ野郎なので目を瞑らせて頂く――、ステレオタイプなイメージでコントロール出来ない魅力的な、「人と人」の恋物語を描いたのだ、と僕は思う。

その、平面的なステレオタイプからはみ出しまくった甘くない甘い想い出は、僕にとってどうしようもなく理想的な“詞”だった。ずっとその“詞”に耳を傾けていたいと思った。

その心地好い甘さが、断ち切れない程に中毒性のあるダウナーな麻薬であるとも知らずに。

 

■その「甘さ」は麻薬

本当にカツセマサヒコというひとはひどいと思う。これだけ「尊敬してます先生アピール」しといてお前こそひでえ読者だなあと思われるかもしれないが、ひどいのだから仕方ないのだ。

本気で、30年近く生きてやっとひねくれ者の僕にとって理想的な恋愛小説に出会えたと思った。それが中盤、鮮やかなまでに裏切られる。

いわゆる最近流行りの小説によくある、エモいどんでん返しとは一線を画す。そんなもんは所詮読者を楽しませるためのギミックに過ぎなくて、この物語の中盤の“裏切り”は、現実の縮図なんじゃないかとすら思うのだ。

これはこの小説の一番の見どころと言うか、これこそがこの物語のアイデンティティなのだろうと読了して数ヶ月が経過した今では思うので詳細に言及するのは避けるが、簡単に説明すると主人公の恋は物語の中盤で終わる。あまりにも呆気なく、オセロの石がパタパタとひっくり返るかのように、終わる。その終わり方がどうしようもなく残酷なのだ。

オセロの石がパタパタとひっくり返った結果、「彼女」と過ごした日々のあの甘さは、全て痛みに変わる。それはまるで麻薬の禁断症状のように、ズキズキと疼いてなかなか消えてくれない。物語の中で生じる出来事としては、もしかしたらありきたりな事なのかもしれないとも思うけれど、その「ありきたりさ」がリアリティになる。

多分僕なんかの文章を読んでくださっている奇特なピーターパンの諸兄諸姉は嫌という程よくおわかりかと思うが、現実はそうドラマチックじゃない。この世界に溢れるラブストーリーは片割れが死にすぎだしその死を乗り越えて生きていこうとしすぎだし、なんだかんだで恋人の大病はあっさり治りすぎだし、ふたりのオトコやふたりのオンナの間で揺れすぎだしどちらかすんなり選びすぎだし、選ばれなかった方も聞き分けが良すぎる。現実にはそんな、「都合の良い都合の悪さ」はない。現実に僕達を苦しめるのは「ありきたり」な「よくある事」ばかりだし、カツセマサヒコというひとはその描き方が、残酷なまでに上手だ。事象としては「ありきたり」な話なのに、こんなにも精神を抉られるのはなんたってあの展開力、そしてモノローグの破壊力があってこそだ。

詞のように甘美な日々はその後の現実のしんどさをより際立たせるだけでしかなくて、その日々が理想的であればある程、“詞”であればある程切らした後の禁断症状は大きい。それは麻薬のように重く尾を引き、ちょっと冷静になれば自分の事ではない、全く知らない他人の物語だという事は痛いぐらいにわかっているはずなのに、そこにあるはずもない“現実”を突きつけられて思わずページを捲る手が止まりそうになる。やめてくれ、もうこれ以上は。これは僕の事なんかじゃない、「僕」の物語のはずなのに。

 

■「失恋した主人公を支える友達」とホモソーシャル

ここで少しだけ脱線する。このまま「彼女」の話をし続けていてもどんどんしんどくなるだけなので、ちょっとだけ愉快な話をさせて頂こう。

『明け方の若者たち』には重要な登場人物が、「彼女」と「僕」以外にもうひとり出てくる。「尚人」と呼ばれる彼は「僕」の友人で、いわゆる悪友みたいな存在だ。

尚人はとてもオトコマエだ。控えめでやや優柔不断な「僕」とは違い、明朗快活で要領が良くいわゆる“意識高い系”っぽくもある。でも決して綺麗事ばかり口にして社会に順応していくようなオトナぶったオトコではなく、いわば夢物語を具現化するにはどうしたらいいか、やたらリアリティを持って傾向と対策を練れる頭の良さがあるオトコだ。友達の中にひとりはいるよね、「京都行きたいね〜」「台湾行きたいね〜」とかフィーリングで喋ってただけなのに翌日徐にやたら具体的な旅のプラン提案してくるヤツ。多分尚人はそのタイプ。あと言わずもがなモテる。

物語の前半を占める「彼女」とのシーンは大好きな場面ばかりなのだけれど、後半にも大好きなシーンが沢山あって、その大半が尚人との場面だ。中でも好きなのが、彼女と別れて憔悴しきり、文字通り死にかけていた「僕」のもとを尚人が訪ね、世話を焼いてやるシーンだ。彼は「僕」の家の台所を勝手に漁って紅茶を入れてやるのだが、その中には大量の砂糖が入っていて「僕」は度肝を抜かす。

「人間の体は、あっためて甘いもん入れたら、少しは落ち着くようにできてんだよ」「あとな、失恋の傷は、異性で癒そうとするな、時間で癒せ」
そう言い放った尚人はやっぱりオトコマエで、うっかり「彼女」と同じぐらいときめいてしまう。

 

でもここでちょっと考えたいのが、よくあるラブストーリーの「失恋に喘ぐ主人公を励ます友人」という構図。これって性別を問わず、時にホモソーシャル的になっちまうんだよな。

多くの場合で「ホモソーシャル」って男性同士の“女性を排除した”関係性、いわゆるガチムチ! スポ根! 女人禁制!!! みてえなクソ男尊女卑ワールドを指す事が多いが、広義では女性だけの男子禁制的な(時に男性嫌悪的な)関係性も指すらしいので、ここではいわゆる男女には限りません。ともかく、この世の大半を占める「オトコ」と「オンナ」という性別、その片方を嫌悪し、排除するような空気を持ってしまいかねないというお話。

なあ、お前を振るなんてひでえオンナだよなあ、そんなオンナとっとと忘れようぜ、なんなら恋愛なんて暫くいいじゃねえか、オンナなんて信用出来ねえよ、ヒステリックでジコチューじゃねえか。なんか、そういう感じの空気ね。恋人という異性をオカズというか、当て馬として同性同士の繋がりを強固にするホモソーシャル・オナニーのお時間。女性同士のお話でもきっとあるはず、オトコなんてみんな死ね!!! みたいな。

 

僕は正直この社会に当たり前にまことしやかに存在し続ける男女異性愛至上主義的な思想には一度木っ端微塵に砕けてほしいと思っているのだが、だからと言ってそういう、同性同士の繋がりを強くするために他の性別を持つ存在を当て馬扱いするような思考回路はそれはそれでクソみてえだなあと思っている。そして、カツセマサヒコというひとはそんなクソみてえな空気を、尚人と「僕」の関係性からものの見事に排除しているのだ。何故なら、尚人は「僕」と「彼女」とまるで竹馬の友のように、ニコイチならぬサンコイチのように行動を共にし、楽しげに笑い合った仲だからだ。

尚人と「僕」と「彼女」は毎晩のように高円寺の酒場で夢を語らい、どうでもいい詭弁に花を咲かせ、夜空を見上げて笑い合った。尚人は彼女の人間的な魅力を、“友人として”よく知っているのだ。

これはやっぱり尚人が快活な好青年でモテる事にも所以があるのかもしれないが、彼には多分、性別にこだわらず人間を見る事が出来るフラットな目がある。3人の間には決して“カップル”と“カレシの友人”というような壁はなく、ただの3人の若者として、夢と希望に瞳をきらきら輝かせながらも目の前に迫る現実と取っ組み合いながら生きる人間同士として、まるできょうだいのように豊かで、眩しい関係性を築いているように見えた。だからこそ、「僕」を励まそうとする尚人の言葉は重く、温かい。

その後、絵に描いたような学生時代のホモソ先輩が登場して「僕」は「女を忘れるには女だ!」と風俗に連れていかれてしまうのだけれど、その場に居合わせパイセンと一緒になって「僕」を唆す尚人は終始ふざけた調子だ。今ならわかる。多分あれ、本心じゃなかったんじゃねえかな。

先にも述べたようにカツセマサヒコというひとは「タイムラインの王子様」なんてキャッチフレーズをつけられて、彼に対していかにも男女の恋愛! ロマンチック至上主義!!! みたいなイメージを抱いているツイッタラーも一定数はいるんじゃないかと思う。でも決してこのひとは“君と僕の物語”ばかりのひとではない――いや、広い意味で考えればこれも“君と僕の物語”なのかもしれないが。

著者は女性誌の『ar』の次月号の内容を紹介する連載などもしているのだけれど(そう、あの“おフェロ”で有名な『ar』である!)、定期的にイケメン特集が組まれるあの雑誌の紹介ではもう完全に、ボーイッシュでちょっとミーハーな女子大生なのだ。言っちゃえば表紙を飾る吉岡里帆さんと、中ページのカラーグラビアを彩る成田凌さんへの目線がほぼ一緒。これはいちファンの、カツセマサヒコという作家のシンパの主観だと思って聞いてほしいのだけれど、やっぱりこのひとは「オトコ」や「オンナ」ではなく、「人間」の美しさやエロスへの賛辞を書かせたら右に出る者は居ないひとだと思う。そんな著者だからこそ、あんな甘い恋の想い出とゆるやかな男同士の友情を、ひとつの物語の中にあれ程までにフラットに描き込めたんじゃないかな。

もしかしたら尚人も根っこは、風俗パイセンと一緒で、知らんオンナ抱いて失恋を忘れられるタイプのオトコなのかもしれない。だとしても彼は間違いなく「彼女」を“友達のカノジョ”で“オンナ”だとは見ていなかったと思う。彼等は人間同士として理解し合っていただろうし、「僕」を風俗に行かせるためにカンパまでした尚人を「僕」がちょっとだけ「無神経なヤツだな」と思ったとしても、彼等の友情はきっと続く。そういうもんなんじゃないかと思う、友情ってヤツは。すべてわかり合いたいと思ってしまいがちな恋心と違って、もっとゆるくて流動的で、強固なものだ。その対比もなんだか素敵だった。どちらかが崇高で、どちらかが不必要だなんて事はなく、全ての関係性は等しく尊い

 

■「エモい」の正体

昔からいわゆる「しんどい」音楽が好きだった。子供の頃に全く意識せずに「素敵だなあ」と思っていたイエモンの『バラ色の日々』や『JAM』の歌詞は大人になってから改めて読み込んでみたらはちゃめちゃにえぐかったし、じゃあメロディに惹かれていたのかと考えたらコード進行なんかも完全に泣かせにかかってた。歳を重ねれば重ねる程に感情の蓄積も増えるし、涙腺も弱くなるので、「やっぱりミスチルは『シフクノオト』が一番好きだなあ」なんて思うようになるけれど、時々猛烈に『深海』の重たさが懐かしくなる。友達と夜遅く、終電ギリギリまで遊んだ夜には途中下車してひとりになりたくなってしまう。よく知らない都会の路地裏を歩きながら、周りに誰もいなかったならVapeなど吹かしちゃったりして、月を見上げてわざわざ自分から淋しくなりに行くのだ。

僕はラブストーリーが苦手なので、多分この小説をカツセマサヒコが書いていなければ、本屋の平積みで出会った行きずりの本ならば読まなかったかもしれない。だけれど、多分これを書いたのがカツセマサヒコでなくても、僕はこの小説を読んだならきっと泣いていただろう。

 

当然の話だが、人間は歳を重ねる毎に経験した感情の種類が増える。いわゆる人生経験ってヤツによって、それまで抱いた事のなかった感情も抱くようになるからだ。感情は年々蓄積され、その種類や量のレンジは拡張される。

元々は英単語「emotional」の略だし、音楽用語である側面が強かったにも関わらず、すっかり若者の流行り言葉扱いになってしまった「エモい」という言葉。でもこれって、ある程度歳を重ねたひとこそ実は感じやすくなるものなんじゃないかとも思う。何故なら「エモい」という感覚は決してSNSなんかで簡単にシェア出来るものではなく、どこまでも内省的で、そのひとそれぞれがそのかけがえのない人生の中で経験し、内側に蓄積されてきた感情をふとしたきっかけで引きずり出された時に感じるものだからだ。

カツセマサヒコというひとは、ここまで「エモい」が市民権を得る前から「エモい」の名手だった。それこそ、彼が「タイムラインの王子様」になったのも、きっと多くのひとびとの「エモい」を引きずり出したからだ。何故か、と考えた。彼の書く文章は、どこまでも主語が小さく、そして良い意味で視点人物の輪郭が曖昧なのだ。

出典元を今大慌てで探したのだが確証の持てるものに出会えなかったという物書きとしての駄目っぷりをまず最初に晒してから続けるが、氏はかつて何かの記事かなにかで自身の事を「ミーハーなのが売りだと思っている」と語っていた。おそらくだけれど、氏の言う「ミーハーさ」というのは流行りものに軽率に飛びついて飽きるというような意味ではなく、自分の周囲のひとたちが良いと言っているもの、世間一般的にシンパが多いもの、いわゆる名作だとか、名曲だとかを素直に愛する(そして時に素直に飽きる)事が出来るということなんじゃなかろうか。オタクではなくサブカル。絵に描いたようなサブカル人(びと)だ。だから僕達は、氏の描く“絵に描いたようなサブカル人(びと)”な視点人物の向こうに、無意識のうちに自分自身を重ねてしまう。その、輪郭は曖昧なくせに、いかにも何者かであるかのように立ち上がる良い意味で無個性な個性は、捻くれたサブカル野郎な我々にとって自分を重ね合わせやすいのだ。そして、よくあるインターネット文章のように軽率に容易に「僕達」だとか「人間は」だとか、「オトコは」だとか「オンナは」だとかでかい主語で喋らない。氏の描く物語はあくまでも「僕」や「私」の胸のうちに蓄積されたそれぞれの感傷にそっと寄り添い、優しい指先で掬い上げるようにして、「エモい」を引きずり出してくれる。

 

「僕」は結局、幸せ者だったのだと思う。あのどうしようもない、10代の頃程将来の事考えないでいられるわけじゃないけど、決して安定した未来が見えているわけでもない、どんなに手堅い仕事に就いたとしてもどうしようもなくモラトリアムな20代の年頃に、あんなにもぐちゃぐちゃになれる程の恋が出来たのだから。もうちょっと大人になってしまったらそうそうぐちゃぐちゃになんてなれやしないだろうし、10代の夢見がちで独り善がりな恋とも違うだろうし。僕にはそんな素敵な経験は生憎今のところないけれど、あの物語を読んでいる間だけは確かに、「彼女」と、そして尚人と過ごした日々は「僕」のものだった。

だから彼等には幸せになってもらわないと困る。幸せの雛形なんてないのだからどんなかたちをしているのかすら僕にはわからないけれど、もしかしたら実感がないだけで今既に幸せなのかもしれないけれど、そもそも恒久的な幸せなんてこの世に存在しないのかもしれないけれど。あの日々を“共に過ごした”彼等が幸せになってくれないと、僕も幸せになれない気がする。何をするにもままならない、いつまでも夢見るピーターパンではいられない、でも夢見る事をやめる事は出来ない、こんな残酷な現実ってヤツを目の前にして、これからの人生生きていけない気さえしてくる。

多分僕はこれからもあの物語を時々思い出しては、彼等の幸せを祈りながら生きていくのだろう。そして、赤の他人なはずなのにまるで古い友人のように愛おしく思えてしまった彼等の存在を、自分だけのものにせず、世に送り出してくれたカツセマサヒコというひとの幸せも。

ご多忙かと思いますが、どうかお身体に気をつけて。これからも先生にしか描けない「エモ」、楽しみにしています。